第25章 還るひと⑤
その日のうちに、一行はローゼンフェルトの館へ移ることになった。
王都へ戻るにはまだ早かった。
セラフィナの身体は長旅に耐えられるほど回復しておらず、神殿での出来事の余韻も誰の中にもまだ生々しく残っている。まずは海の近くで一夜を明かし、それから今後を決めることで纏まった。
館は実直で飾り気こそ少ないが、風と光のよく入る場所だった。
窓を開ければ海が見える。白耀の塔のように閉ざされてはいない。必要なものだけを丁寧に置いたような部屋の静けさに、セラフィナは不思議な落ち着きを覚えた。
寝台の端へ腰を下ろすと、まだ少しだけ身体が揺れるような気がする。
神殿で座へ至った時の、あの深い沈み込みの感覚が、まだどこかに残っているのかもしれない。
窓の外を見ながら、セラフィナは小さく言った。
「……ここは、あなたらしいですね」
振り向いたレオニスが、わずかに首を傾げる。
「私の育った館です」
「そうね、あなたの故郷でしょう」
「ええ」
「きれいです。静かで、まっすぐで」
少し迷ってから、続ける。
「レオニスみたいです」
その言葉に、彼は珍しく返答に困ったように黙り込んだ。
黙ったまま、ほんの少しだけ視線を逸らす。
その反応が少しおかしくて、セラフィナは笑った。
笑ってから、こんなふうに笑えることが嬉しくて、また泣きそうになる。
夜には、小さな宴が開かれた。
祝宴というには静かだった。
誰もがまだ、この一日の大きさを自分の内側へうまく収めきれていない。けれど確かに、終わりと始まりの両方を祝う気配がそこにはあった。
王はその席で、レオニスを呼んだ。
「レオニス・ローゼンフェルト」
名を呼ばれた彼は、静かに進み出て膝をつく。
「そなたの働きがなければ、姫はここへ至れなかった。いや、それだけではない。長く閉ざされていた王家の流れそのものが、今日まで残ることもなかっただろう」
王の声は、公的な響きを帯びていた。
だがその底には、個人的な感謝が確かにあった。
「望む褒賞を申せ」
その場の空気がわずかに張る。
王家からの褒賞。
それがどれほどの意味を持つか、ここにいる誰もが知っていた。爵位か、土地か、金か。あるいは王家への近しい地位か。誰もざわめきはしなかったが、皆が息を潜めてレオニスを見ていた。
レオニスは一度だけ、視線を上げた。
その先にはセラフィナがいた。
セラフィナの胸が、小さく鳴る。
レオニスの唇が動く。
「姫……」
その一語に、場の空気が微かに揺れた。
何人かが息を呑むのがわかった。
王妃が目を見開き、エレノアがそっとセラフィナを見る。ユリウスの視線だけが、ひどく鋭いまま動かなかった。
けれどレオニスはそこで言葉を切った。
ほんのわずかな沈黙のあと、静かに続ける。
「姫殿下に、求婚する権利をいただきたい」
しん、と音が消えた気がした。
海の音さえ遠くなる。
セラフィナは息を止める。
胸の奥が大きく揺れ、指先まで熱くなった。
王がじっとレオニスを見る。
その目は厳しかったが、怒ってはいなかった。むしろその願いの真意を確かめようとする目のようで、セラフィナはこくりと息をのんだ。
「姫そのものを望むのではなく、権利を、というのだな」
レオニスは深く頭を垂れる。
「はい」
「なぜだ」
問いは短い。
だが、その場にいる誰もが答えを聞きたかった。
レオニスは膝をついたまま、少しも迷わなかった。
「姫殿下を、褒賞として受け渡されるものにしたくないからです」
その声は低く、だが驚くほどはっきりとしていた。
「この方は、石の対でも、駒でもない」
「……」
「この先をどう生きるかは、この方が選ぶべきです。そのうえで、私が願うことを許されるなら……求婚をお許しいただきたい」
誰もすぐには口を開けなかった。
王妃が目を伏せ、エレノアは泣きそうな顔で微笑んでいる。
ユリウスだけはしばらく無表情のままレオニスを見つめていたが、やがて、ほんのわずかに息を吐いた。
王がゆっくりとセラフィナを見る。
「どう思う」
問われて、セラフィナは一瞬言葉を失った。
まだすべてが終わったばかりだった。
白耀の塔を出て、海へ来て、座へ至り、喪ったと思われ、戻ってきた。そのすべてがあまりに大きくて、心はまだ追いついていない。
それでも、いま問われていることの意味だけは、はっきりとわかった。
与えられるのではない。
誰かの判断で決まるのでもない。
自分が選ぶのだと。
セラフィナはレオニスを見た。
実直で、飾らなくて、不器用なくらいまっすぐな人。
旧都の薄暗い廊下で、道を塞ぐように立っていた背中を思い出す。
熱で意識が途切れる馬上で、外套越しにあった体温を思い出す。
神殿の石の床に膝をつき、声もなく泣いていたその横顔を思い出す。
この人は一度も、自分に何かを求めなかった。
役目を押しつけもしなかった。
ただ、隣にいた。
それだけで、これほど遠くまで来られたのだと、今になってわかる。
いま問われているのは、この人を選ぶかどうかではない。
自分が、自分自身の人生を選ぶかどうかだ。
誰かに決めてもらう時代は、もう終わった。
自分を役目としてではなく、一人の人間として見続けてくれた人。
喪ったと思った時に泣いて、戻ってきた時にも泣いて、それを隠しもしない人。
胸の奥に、あの時自分で口にした言葉が蘇る。
あなたに、生きていてほしいから。
わたしも、生きていきたいのです。
セラフィナはゆっくりと微笑んだ。
「……その権利を差し上げますが、お返事はまたその時に考えさせてください」
場が、ほんのわずかにどよめく。
だが次の瞬間、王妃が笑いながら泣き、エレノアが「そうよ」と小さく頷き、ユリウスでさえ口元を少しだけ緩めた。
レオニスは驚いたように目を瞬かせ、それから深く頭を下げる。
「はい」
その返事に、セラフィナは今度こそはっきり笑った。
王は頷く。
「よかろう。求婚の権利を許す。だが言うまでもなく、決めるのは姫自身だ」
「承知しております」
「そしてローゼンフェルトには、新たに爵位と領地を加増する」
「ありがたく」
形式上の宣言はそれで終わった。
けれど本当に大切だったのは、その前に交わされた短いやりとりの方だったのかもしれないと、セラフィナは思う。
宴のあと、皆が少しずつ席を立っていく。
外へ出ると、夜の海が静かに月を映していた。
白耀石の白い光ではない。
どこまでも深く、やわらかな青の中に、月がひとつ浮かんでいる。
レオニスが、少し離れたところに立っていた。
「お疲れではありませんか」
振り向いた彼がそう言うので、セラフィナは首を振る。
「少しだけ」
「それならお休みを」
「でも、もう少しだけ見ていたいのです」
海を見ながら言うと、レオニスも隣へ立った。
潮の匂いがする。
夜の風は冷たいが、痛くはない。
しばらく二人で海を見ていた。
言葉はなくても苦しくない沈黙だった。むしろ、こんなふうに並んで立てること自体が、まだ夢の続きのように思えた。
やがてセラフィナは、自分の手元へ目を落とす。
白い手袋。
長いあいだ、自分の身体の一部みたいに離せなかったもの。
これがなければ誰かを傷つけるのだと思っていた。いや、本当は逆で、自分が壊れてしまうのだと知ってからも、なお外すのは怖かった。
「……レオニス」
呼ぶと、彼が目を向ける。
「はい」
「たしかめても、よいでしょうか」
レオニスはすぐには答えなかった。
その沈黙で、彼もまた同じように怖いのだとわかった。
神殿で流れは還った。
魚は正しい場所へ戻った。
母も触れた。姉も抱きしめた。
それでもなお、彼に触れることだけは、別の意味で恐ろしかった。
壊れたくなかった。
この人とのあいだでだけは、最後まで触れられないままでも仕方がないと、どこかで思っていたのかもしれない。
セラフィナはゆっくりと手袋の留め具へ指をかけた。
金具が小さく鳴る。
するり、と白い布が外れる。
夜気が、むき出しの手に触れた。
それだけで胸が少し早くなる。
レオニスの目が、その手に落ちた。
けれど彼は、すぐには手を伸ばさなかった。
「……本当に、よろしいのですか」
低い声だった。
いつものように落ち着いているのに、その奥に張りつめたものがあった。
セラフィナは小さく頷く。
「こわいです」
「……」
「でも、あなたに、触れてみたいのです」
言ってしまってから、耳まで熱くなる。
けれど今さら引っ込めることはできなかった。
レオニスが、息を止めた気配がした。
やがて彼も、自分の手袋を外した。
夜の光の下に現れた素手は、剣を握ってきた人の手らしく骨ばっていて、節がしっかりしていて、思っていたよりずっとあたたかそうに見えた。
けれどその手もまた、すぐには来ない。
二人のあいだに、あとほんの少しの距離がある。
それが今は、どんな深い谷より遠く思えた。
セラフィナは思い切るように、自分の手をほんの少し持ち上げた。
レオニスの指先が、わずかに震える。
そして──
おそるおそる、触れる。
最初に重なったのは、指先だけだった。
その瞬間、二人とも息を止めた。
何も起こらない。
痛みもない。
崩れ落ちる気配も、命を奪われるような冷たさもない。
ただ、ひとの体温だけが、確かにそこにあった。
セラフィナの喉が小さく鳴る。
「あ……」
こぼれたのは、声というより吐息だった。
レオニスは何も言えないまま、ただ触れた指先を見つめている。
その横顔が、信じられないものを見るように静かに揺れていた。
セラフィナはゆっくりと指を開く。
するとレオニスも、ごく自然にその指に自分の指を重ねた。
今度は、手のひらが合う。
あたたかかった。
思っていたよりもずっとあたたかくて、思っていたよりもずっとやさしい感触だった。
それだけで、どうしてこんなに胸が苦しいのかわからない。
触れられる。
この人に。
もう壊れずに。
セラフィナはそれだけで胸が詰まって、泣きそうに笑った。
「……ほんとうに」
「はい」
「ほんとうに、触れられるのですね」
レオニスは返事の代わりに、そっと指を絡めた。
強くはない。逃げ道を残すような、けれど確かに離したくない触れ方だった。
その仕草が、セラフィナにはたまらなかった。
見上げると、レオニスもこちらを見ていた。
近い、と思う。
けれど触れているのは手だけなのに、胸の奥ではもっと深いところを触れられた気がした。
「セラフィナ様」
その呼び方が、いつもより低く響く。
セラフィナは指を握り返した。
「……はい」
レオニスは絡めた指をほどかないまま、セラフィナの手をゆっくりと持ち上げた。
まるで壊れものを扱うように慎重に、けれど熱を隠しきれないまま、その指先へ額を寄せる。
セラフィナは息を呑む。
口づけではない。
それなのに、それ以上のことをされたように胸が震えた。
「ようやく、触れられました」
掠れた声でそう言うレオニスに、セラフィナは何も返せない。
ただ、繋いだ手を離したくないと思った。
夜の海も、月の光も、遠くなる。
素手で触れ合った手のひらだけが、いまはこの世でいちばん確かなもののように思えた。
石に守られる国の時代は終わった。
白耀の塔に閉じ込められていた姫も、もういない。
けれど、海の色を宿したひとりの娘は、ここにいる。
泣いて、笑って、触れられて、それでもなお生きていくために。
セラフィナは繋いだ手のひらを、もう一度だけ確かめるように見下ろした。
手袋のない、自分の手。
この手が誰かを壊すと思っていた。
この手に触れれば人が死ぬと、そう言い聞かせて生きてきた。
なのに今、ただあたたかい。
それだけで、ひどく泣きたかった。
何年も閉じ込めてきた時間ぶんだけ、泣きたかった。
だが泣けなかった。
もっと、ずっと先まで、この景色を見ていたかったからだ。
この手を繋いだまま、もっと遠くまで行ってみたかったからだ。
夜の海は深碧に沈み、その上に月だけが静かに光っていた。




