表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
69/81

第25章 還るひと⑤

 その日のうちに、一行はローゼンフェルトの館へ移ることになった。


 王都へ戻るにはまだ早かった。

 セラフィナの身体は長旅に耐えられるほど回復しておらず、神殿での出来事の余韻も誰の中にもまだ生々しく残っている。まずは海の近くで一夜を明かし、それから今後を決めることで纏まった。


 館は実直で飾り気こそ少ないが、風と光のよく入る場所だった。

 窓を開ければ海が見える。白耀の塔のように閉ざされてはいない。必要なものだけを丁寧に置いたような部屋の静けさに、セラフィナは不思議な落ち着きを覚えた。


 寝台の端へ腰を下ろすと、まだ少しだけ身体が揺れるような気がする。

 神殿で座へ至った時の、あの深い沈み込みの感覚が、まだどこかに残っているのかもしれない。


 窓の外を見ながら、セラフィナは小さく言った。


「……ここは、あなたらしいですね」


 振り向いたレオニスが、わずかに首を傾げる。


「私の育った館です」

「そうね、あなたの故郷でしょう」

「ええ」

「きれいです。静かで、まっすぐで」


 少し迷ってから、続ける。


「レオニスみたいです」


 その言葉に、彼は珍しく返答に困ったように黙り込んだ。

 黙ったまま、ほんの少しだけ視線を逸らす。


 その反応が少しおかしくて、セラフィナは笑った。

 笑ってから、こんなふうに笑えることが嬉しくて、また泣きそうになる。


 夜には、小さな宴が開かれた。


 祝宴というには静かだった。

 誰もがまだ、この一日の大きさを自分の内側へうまく収めきれていない。けれど確かに、終わりと始まりの両方を祝う気配がそこにはあった。


 王はその席で、レオニスを呼んだ。


「レオニス・ローゼンフェルト」


 名を呼ばれた彼は、静かに進み出て膝をつく。


「そなたの働きがなければ、姫はここへ至れなかった。いや、それだけではない。長く閉ざされていた王家の流れそのものが、今日まで残ることもなかっただろう」


 王の声は、公的な響きを帯びていた。

 だがその底には、個人的な感謝が確かにあった。


「望む褒賞を申せ」


 その場の空気がわずかに張る。


 王家からの褒賞。

 それがどれほどの意味を持つか、ここにいる誰もが知っていた。爵位か、土地か、金か。あるいは王家への近しい地位か。誰もざわめきはしなかったが、皆が息を潜めてレオニスを見ていた。


 レオニスは一度だけ、視線を上げた。

 その先にはセラフィナがいた。


 セラフィナの胸が、小さく鳴る。


 レオニスの唇が動く。


「姫……」


 その一語に、場の空気が微かに揺れた。

 何人かが息を呑むのがわかった。

 王妃が目を見開き、エレノアがそっとセラフィナを見る。ユリウスの視線だけが、ひどく鋭いまま動かなかった。


 けれどレオニスはそこで言葉を切った。

 ほんのわずかな沈黙のあと、静かに続ける。


「姫殿下に、求婚する権利をいただきたい」


 しん、と音が消えた気がした。


 海の音さえ遠くなる。


 セラフィナは息を止める。

 胸の奥が大きく揺れ、指先まで熱くなった。


 王がじっとレオニスを見る。

 その目は厳しかったが、怒ってはいなかった。むしろその願いの真意を確かめようとする目のようで、セラフィナはこくりと息をのんだ。


「姫そのものを望むのではなく、権利を、というのだな」


 レオニスは深く頭を垂れる。


「はい」


「なぜだ」


 問いは短い。

 だが、その場にいる誰もが答えを聞きたかった。


 レオニスは膝をついたまま、少しも迷わなかった。


「姫殿下を、褒賞として受け渡されるものにしたくないからです」


 その声は低く、だが驚くほどはっきりとしていた。


「この方は、石の対でも、駒でもない」

「……」

「この先をどう生きるかは、この方が選ぶべきです。そのうえで、私が願うことを許されるなら……求婚をお許しいただきたい」


 誰もすぐには口を開けなかった。


 王妃が目を伏せ、エレノアは泣きそうな顔で微笑んでいる。

 ユリウスだけはしばらく無表情のままレオニスを見つめていたが、やがて、ほんのわずかに息を吐いた。


 王がゆっくりとセラフィナを見る。


「どう思う」


 問われて、セラフィナは一瞬言葉を失った。


 まだすべてが終わったばかりだった。

 白耀の塔を出て、海へ来て、座へ至り、喪ったと思われ、戻ってきた。そのすべてがあまりに大きくて、心はまだ追いついていない。

 それでも、いま問われていることの意味だけは、はっきりとわかった。


 与えられるのではない。

 誰かの判断で決まるのでもない。

 自分が選ぶのだと。


 セラフィナはレオニスを見た。


 実直で、飾らなくて、不器用なくらいまっすぐな人。

 旧都の薄暗い廊下で、道を塞ぐように立っていた背中を思い出す。

 熱で意識が途切れる馬上で、外套越しにあった体温を思い出す。

 神殿の石の床に膝をつき、声もなく泣いていたその横顔を思い出す。


 この人は一度も、自分に何かを求めなかった。

 役目を押しつけもしなかった。

 ただ、隣にいた。

 それだけで、これほど遠くまで来られたのだと、今になってわかる。


 いま問われているのは、この人を選ぶかどうかではない。

 自分が、自分自身の人生を選ぶかどうかだ。


 誰かに決めてもらう時代は、もう終わった。

 自分を役目としてではなく、一人の人間として見続けてくれた人。

 喪ったと思った時に泣いて、戻ってきた時にも泣いて、それを隠しもしない人。


 胸の奥に、あの時自分で口にした言葉が蘇る。


 あなたに、生きていてほしいから。

 わたしも、生きていきたいのです。


 セラフィナはゆっくりと微笑んだ。


「……その権利を差し上げますが、お返事はまたその時に考えさせてください」


 場が、ほんのわずかにどよめく。

 だが次の瞬間、王妃が笑いながら泣き、エレノアが「そうよ」と小さく頷き、ユリウスでさえ口元を少しだけ緩めた。


 レオニスは驚いたように目を瞬かせ、それから深く頭を下げる。


「はい」


 その返事に、セラフィナは今度こそはっきり笑った。


 王は頷く。


「よかろう。求婚の権利を許す。だが言うまでもなく、決めるのは姫自身だ」

「承知しております」

「そしてローゼンフェルトには、新たに爵位と領地を加増する」

「ありがたく」


 形式上の宣言はそれで終わった。

 けれど本当に大切だったのは、その前に交わされた短いやりとりの方だったのかもしれないと、セラフィナは思う。


 宴のあと、皆が少しずつ席を立っていく。

 外へ出ると、夜の海が静かに月を映していた。


 白耀石の白い光ではない。

 どこまでも深く、やわらかな青の中に、月がひとつ浮かんでいる。


 レオニスが、少し離れたところに立っていた。


「お疲れではありませんか」


 振り向いた彼がそう言うので、セラフィナは首を振る。


「少しだけ」

「それならお休みを」

「でも、もう少しだけ見ていたいのです」


 海を見ながら言うと、レオニスも隣へ立った。


 潮の匂いがする。

 夜の風は冷たいが、痛くはない。


 しばらく二人で海を見ていた。

 言葉はなくても苦しくない沈黙だった。むしろ、こんなふうに並んで立てること自体が、まだ夢の続きのように思えた。


 やがてセラフィナは、自分の手元へ目を落とす。


 白い手袋。

 長いあいだ、自分の身体の一部みたいに離せなかったもの。

 これがなければ誰かを傷つけるのだと思っていた。いや、本当は逆で、自分が壊れてしまうのだと知ってからも、なお外すのは怖かった。


「……レオニス」


 呼ぶと、彼が目を向ける。


「はい」

「たしかめても、よいでしょうか」


 レオニスはすぐには答えなかった。

 その沈黙で、彼もまた同じように怖いのだとわかった。


 神殿で流れは還った。

 魚は正しい場所へ戻った。

 母も触れた。姉も抱きしめた。

 それでもなお、彼に触れることだけは、別の意味で恐ろしかった。


 壊れたくなかった。

 この人とのあいだでだけは、最後まで触れられないままでも仕方がないと、どこかで思っていたのかもしれない。


 セラフィナはゆっくりと手袋の留め具へ指をかけた。

 金具が小さく鳴る。


 するり、と白い布が外れる。


 夜気が、むき出しの手に触れた。

 それだけで胸が少し早くなる。


 レオニスの目が、その手に落ちた。

 けれど彼は、すぐには手を伸ばさなかった。


「……本当に、よろしいのですか」


 低い声だった。

 いつものように落ち着いているのに、その奥に張りつめたものがあった。


 セラフィナは小さく頷く。


「こわいです」

「……」

「でも、あなたに、触れてみたいのです」


 言ってしまってから、耳まで熱くなる。

 けれど今さら引っ込めることはできなかった。


 レオニスが、息を止めた気配がした。


 やがて彼も、自分の手袋を外した。

 夜の光の下に現れた素手は、剣を握ってきた人の手らしく骨ばっていて、節がしっかりしていて、思っていたよりずっとあたたかそうに見えた。


 けれどその手もまた、すぐには来ない。


 二人のあいだに、あとほんの少しの距離がある。

 それが今は、どんな深い谷より遠く思えた。


 セラフィナは思い切るように、自分の手をほんの少し持ち上げた。


 レオニスの指先が、わずかに震える。


 そして──

 おそるおそる、触れる。


 最初に重なったのは、指先だけだった。


 その瞬間、二人とも息を止めた。


 何も起こらない。


 痛みもない。

 崩れ落ちる気配も、命を奪われるような冷たさもない。

 ただ、ひとの体温だけが、確かにそこにあった。


 セラフィナの喉が小さく鳴る。


「あ……」


 こぼれたのは、声というより吐息だった。


 レオニスは何も言えないまま、ただ触れた指先を見つめている。

 その横顔が、信じられないものを見るように静かに揺れていた。


 セラフィナはゆっくりと指を開く。

 するとレオニスも、ごく自然にその指に自分の指を重ねた。


 今度は、手のひらが合う。


 あたたかかった。

 思っていたよりもずっとあたたかくて、思っていたよりもずっとやさしい感触だった。


 それだけで、どうしてこんなに胸が苦しいのかわからない。


 触れられる。

 この人に。

 もう壊れずに。


 セラフィナはそれだけで胸が詰まって、泣きそうに笑った。


「……ほんとうに」

「はい」

「ほんとうに、触れられるのですね」


 レオニスは返事の代わりに、そっと指を絡めた。

 強くはない。逃げ道を残すような、けれど確かに離したくない触れ方だった。


 その仕草が、セラフィナにはたまらなかった。


 見上げると、レオニスもこちらを見ていた。

 近い、と思う。

 けれど触れているのは手だけなのに、胸の奥ではもっと深いところを触れられた気がした。


「セラフィナ様」


 その呼び方が、いつもより低く響く。


 セラフィナは指を握り返した。


「……はい」


 レオニスは絡めた指をほどかないまま、セラフィナの手をゆっくりと持ち上げた。

 まるで壊れものを扱うように慎重に、けれど熱を隠しきれないまま、その指先へ額を寄せる。


 セラフィナは息を呑む。


 口づけではない。

 それなのに、それ以上のことをされたように胸が震えた。


「ようやく、触れられました」


 掠れた声でそう言うレオニスに、セラフィナは何も返せない。

 ただ、繋いだ手を離したくないと思った。


 夜の海も、月の光も、遠くなる。

 素手で触れ合った手のひらだけが、いまはこの世でいちばん確かなもののように思えた。


 石に守られる国の時代は終わった。

 白耀の塔に閉じ込められていた姫も、もういない。


 けれど、海の色を宿したひとりの娘は、ここにいる。

 泣いて、笑って、触れられて、それでもなお生きていくために。


 セラフィナは繋いだ手のひらを、もう一度だけ確かめるように見下ろした。


 手袋のない、自分の手。

 この手が誰かを壊すと思っていた。

 この手に触れれば人が死ぬと、そう言い聞かせて生きてきた。


 なのに今、ただあたたかい。

 それだけで、ひどく泣きたかった。

 何年も閉じ込めてきた時間ぶんだけ、泣きたかった。


 だが泣けなかった。

 もっと、ずっと先まで、この景色を見ていたかったからだ。

 この手を繋いだまま、もっと遠くまで行ってみたかったからだ。


 夜の海は深碧に沈み、その上に月だけが静かに光っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ