表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
68/81

第25章 還るひと④

 ゆっくりと身体を起こすと、皆が安堵と不安の織り交ぜたような表情でこちらを見ていた。

 ここに帰りたいと、そう願って帰ってきた。


 セラフィナは、胸の奥にいつも沈んでいた暗い澱のような痛みが、もうどこにもないことに気付いた。

 息を吸っても、苦しくない。

 肺の奥まで、澄んだ空気が満ちていく。


 指を動かす。腕を持ち上げる。それだけのことが、こんなにも容易い。


 全身を動かすことさえ難儀していた日々が嘘のようで、セラフィナは晴れやかな気持ちのまま、かすかに微笑んだ。


 その微笑みを目にして、ようやく王妃が、今度こそ一歩を踏み出した。

 けれどすぐには触れられない。

 目の前まで来ても、手は震えたまま宙に止まる。


「……触れても、いいの……?」


 泣きながら問うその姿は、王妃ではなく、ただ一人の母だった。


 長いあいだ、恐れてきた。

 触れたくても、触れればこの子を死なせるのではないかと怯えてきた。

 その時間はあまりに長く、許されたと頭で理解しても、すぐには手が届かない。


 セラフィナはぼんやりと王妃を見上げ、それから、泣きそうに微笑んだ。


「お母さま」


 その呼びかけだけで、王妃の目からまた涙が溢れる。


 セラフィナは、ほんの少しだけ頷いた。


 それを許しとして受け取ると、王妃の手がゆっくりと頬へ伸びる。

 触れる直前、もう一度だけためらう。

 本当にいいのかと、最後の恐れが指先を止める。


 けれど今度は、セラフィナの方がその手を迎え入れるように、わずかに顔を寄せた。


 そっと、王妃の指先が頬に触れた。


 あたたかい素手だった。


 王妃の喉から嗚咽が漏れる。


「……ごめんなさい」

「……はい」

「ずっと……ずっと、その頬に触れたかったの」


 セラフィナの目からも涙が落ちる。

 王妃の手は震えていたが、もう離れなかった。


「おまえが生まれて間もないころ……あの魚を、肌から剥がそうとした者たちがいた」


 王妃の声は、何度も途切れた。

 それでも、泣きながら続ける。


「その時、声がしたの。はっきり聞いたわ。この子に触れてはならない、この子の素肌に触れれば、この子の命を奪う、と」

「……」

「怖かったのよ。おまえがではなく、わたくしたちが」


 頬に触れた指先が、わずかに強くなる。


「抱きしめたかった。熱があれば額に触れたかったし、泣けば背を撫でたかった。けれど、わたくしたちの手が、おまえを殺してしまうかもしれないと思うと、どうしても触れられなかった」


 セラフィナは、泣きながら王妃を見上げた。

 それは言い訳ではなかった。長いあいだ、自分を遠ざけてきた人の、あまりに遅く、あまりに痛い告白だった。


「守りたかったの。だから閉じ込めるしかなかった。誰にも触れさせず、こちらも触れず、あの塔の中へ置いておくしか……それしか、おまえを生かしておく方法がないと思ってしまった」

「お母さま……」

「でも、それでおまえをひとりにした」


 王妃の指先が、セラフィナの頬を辿る。

 何年も封じてきた仕草を、いま初めて覚えるように、おそるおそる。


「ごめんなさい。守るつもりで、ずっと、おまえをひとりにしてしまった」

「……」

「怖かったの。いつか間違えて触れてしまうのではないかと、おまえの方から縋ってくれた時に、応えられずに傷つけるのではないかと、全部……怖かった」


 王が低く目を伏せる。


「余も同じだ」


 掠れた声だった。


「真実を知りながら、あの塔へ置くことしかできなかった。守るためだと言い訳しながら、結局は、この手で娘を抱く勇気も持てなかった」


 ユリウスが目を伏せる。


「私たちは皆、同じだ。おまえを失うのが怖くて、近づくことすら半端になった」


 エレノアは涙を拭いもせず、震える声で言う。


「どう接していいかわからなかったの。大事だったからこそ……普通に笑いかけることすら、何かの拍子にあなたを壊してしまいそうで」


 セラフィナの胸の奥で、長いあいだ凍っていたものが、少しずつほどけていく。


 ずっと、愛されていないのだと思っていた。

 石の添え物でしかなく、家族にとっても腫れ物のような存在なのだと。

 けれど違ったのだ。

 遠ざけたのは、疎ましかったからではない。失うのが怖かったからだ。


 それは、失われた時間を戻してはくれない。

 塔の中の孤独が消えるわけでもない。

 それでも、いま初めて、同じ痛みの場所へ手が届いた気がした。


「……わたしも、こわかったです」


 涙の中で、セラフィナはようやくそう言えた。


「ずっと、誰かに触れたらその人が死ぬのだと思っていました。だから近づいてはいけないのだと、自分に言い聞かせていました」

「セラフィナ……」

「でも、本当は……さみしかった」


 王妃が泣きながらセラフィナを抱き寄せる。

 今度はもう、ためらわなかった。


 その後ろで、エレノアが顔を覆う。

 泣くまいとしても、細い肩が小さく震えている。


「お姉さま」


 呼ぶと、エレノアは涙に濡れたまま顔を上げた。

 気丈に口元を引き結んでいるのに、目だけがひどく正直だった。


「……そんなふうに呼ばないで」


 絞り出すような声だった。


「いま、そんなふうに優しく呼ばれたら、ほんとうに自分が許せなくなる」

「どうして」

「当たり前でしょう」


 そう言いながら、さらに大粒の涙をこぼす。


「同じ姫として生まれたのに、あなたにばかり背負わせて、一人にさせて……」

「一人では、ありませんでした」

「そういうことを言っているんじゃないのに……」


 その言葉の途中で、エレノアは耐えきれなくなって歩み寄る。

 セラフィナは一瞬ためらった。抱きしめてもいいのだろうかと、長くそうしてこなかった習慣が、まだ身体のどこかに残っていたからだ。


 けれどエレノアの方が先だった。

 壊さないように、それでも確かに、セラフィナを抱きしめる。


 そのことが嬉しくて、セラフィナはまた泣いた。


 少し離れたところで、ユリウスがようやく深く息を吐く。

 それは長い長い時間を胸に押し込めていた人の息だった。


「兄上」


 呼ぶと、彼はしばらく答えなかった。

 やがて顔を上げる。いつものように整った皇太子の顔ではなかった。疲労と安堵と、まだ抜けきらない恐怖が、そのままそこにあった。


「……後で叱る」

「はい」

「今はまだ、その気力が残っていない」

「はい」


 素直に頷くと、ユリウスの口元がわずかに動いた。

 苦笑とも言えないほど小さなそれが、彼なりの安堵なのだとセラフィナにはわかった。


 王はしばらく黙って娘たちを見ていた。

 やがて、レオニスに支えられ、母と姉に囲まれてなおここにいる末娘の姿を確かめるように一度頷くと、神殿の奥から海の方へ視線を向けた。


 深碧の円環はもう閉じている。

 海は静かだった。

 だがその静けさは、以前のような押し隠した沈黙ではない。役目を終えたものの、深い呼吸のようだった。


「行こう」


 王のその一言で、誰もがようやく現実へ戻る。


 神殿を出ると、外の風は驚くほどやわらかかった。

 あれほど国を覆っていた重苦しい気配は薄れ、潮の匂いだけが素直に肌を撫でていく。空はまだすっきりとは晴れていない。それでも、遠くの雲の切れ間にひとすじの明るさがあった。


 浜には多くの者が集まっていた。

 ローゼンフェルトの兵、領民、王都から駆けつけた騎士たち。誰もが神殿の浮上を見守り、その後どうなったのかを知りたくて息を潜めていたのだろう。


 一行が姿を現した瞬間、ざわめきが走る。


 瘴気が消えたことで儀式が成ったことは誰の目にも明らかだった。


 姫殿下だ。

 ご無事だ。生きておられる。

 戻られた。


 そんな声が、波のように広がっていく。


 セラフィナは立ち止まった。


 恐れられる視線には慣れていた。

 遠巻きにされることにも、触れてはならないものとして見られることにも慣れていた。

 けれど今向けられている目は、それらとは違っていた。


 奇跡を見た驚きだけではない。

 喜びと、ほとんど切実な安堵がそこにある。


 それが、不思議で、少しだけ眩しかった。


 王は浜へ進み出る。

 潮風の中で立つその姿は、神殿の中で娘を見つめていた父ではなく、この国を背負う王だった。


「聞け」


 大きくはない声だった。

 それでも不思議と、浜の隅まで届いた。


 ざわめきが静まる。


「本日をもって、我らは白耀石の時代を終える」


 どよめきが走った。

 長く国を支えてきた石の名を、王自身が終わりとして告げたのだ。無理もない。


 けれど王は続けた。


「石に守られる国ではなく、人が立て直す国として、この先を生きる。歪められていた流れは還った。だが失われたものを嘆くだけで国は残らぬ」

「……」

「守るべきは石ではない。生きた人々だ」


 セラフィナは静かに目を見開く。


 石ではなく、人を。

 その言葉は、そのまま自分自身へ向けられたもののようにも思えた。長く石と対に置かれ、石の添え物のように扱われてきた自分を、ここで王が切り離したのだと。


 ユリウスが少しだけ目を伏せる。

 あの日、「王家が持ち出すべきは石ではない」と言い切った兄の決断が、今、王の言葉として国に渡されたのだ。


 人々は戸惑いながらも、誰ひとり否定の声を上げなかった。

 神殿を見、流れの還るところを見た。

 その絶対的な奇跡を見てしまったあとで、以前とまったく同じ世界へ戻れると思う者はいないのだろう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ