第25章 還るひと③
女神は静かに見つめている。
その眼差しに失望はない。ただ、すべてを知った上で待っている。
「神の庭は、きっと、とても安らかで……やさしいのでしょう」
セラフィナは泣きながら笑った。
「でも、そこには……あの人たちが、いないわ」
胸の奥に浮かぶのは、いくつもの顔だった。
ぎこちなく、それでも一歩ずつ近づいてきてくれた家族。
不器用なくせに、怒るときだけは誰よりまっすぐな人。
自分が消えてしまえば悲しむ人たち。
「わたし、あそこへ帰りたい。生きたいの」
女神はまぶたを伏せ、やがて微笑んだ。
その表情は、どこか誇らしげですらあった。
「……そう言うと思っていました」
白い光が、少しだけ揺れる。
「では最後に問います、セラフィナ。おまえの願いはなんですか」
自分の身の自由。
誰かと触れ合える身体。
レオニスの手を取れる未来。
幼い頃の母の手。暖かな団欒の時間。
欲しいものは本当は、たくさんあった。
けれど、それより先に、脳裏に浮かぶものがある。
黒い流れ。
蝕まれた土地。汚れた水。
苦しむ人々。
長く歪められてきた祈りと、疲れ切った世界。
セラフィナはまっすぐ女神を見た。
「瘴気に侵された世界を、元に戻したい」
女神の瞳が静かに見開かれる。
「わたし一人が救われるのではなくて……苦しんでいる人たちが、生きていける世界にしたい。海も、大地も、町も、みんなが……」
息が揺れる。
それでも言い切る。
「それが、わたしの願いです」
しばらく、沈黙があった。
やがて女神は、ひどく美しい、晴れわたるような笑みを浮かべた。
「おまえは、まことに神子姫だ」
その言葉とともに、女神の身体が光へほどけはじめる。
長い髪が水の流れのように散り、衣が白い泡のように砕け、最後にあの魚の形へ戻っていく。
「ならば帰りなさい、セラフィナ」
魚は彼女の胸元へ寄り添うように巡った。
「我もこの世界でずっと共に在ります。今度は隠れず、おまえの願いのために」
「待って」
セラフィナは思わず手を伸ばす。
魚は逃げず、ただ目の前でひらりと尾を振った。
「わたし……本当に、帰れるの?」
すると魚の姿のまま、声だけがやさしく響く。
「おまえが望んだのでしょう」
乳白の光が急速に満ちていく。
世界がほどけ、遠のき、代わりに石の冷たさや血の匂い、誰かの嗚咽が近づいてくる。
最後に、魚が言った。
「今度は、生きるために」
そこで、白は砕けた。
***
神殿の外では、海だけが静かに鳴っていた。
その時だった。
最奥の円環の向こう、海へ繋がる深碧の光の奥で、ひとすじのきらめきが揺れた。
最初は、誰もそれが何なのかわからなかった。
涙に滲んだ目のせいかと思うほど、かすかな光だった。
だが次の瞬間、そのきらめきははっきりと形を持つ。
魚だった。
深碧に銀を滲ませた、美しい魚。
たった今、セラフィナから飛び出し海へ還ったはずのそれが、もう一度こちらへ戻ってくる。
誰かが息を呑む。
魚は水の中を泳ぐように、けれどそこに水はないまま、静かに空中を滑ってきた。尾をひと打ちするたびに、光の粒がこぼれ、細かな水の雫のように周囲へ散る。散った雫は床へ落ちる前に、きらきらと弾けて消えた。
魚はまっすぐにセラフィナの上へ来ると、その胸のあたりで止まった。
深碧の光が、一度、大きく脈を打つ。
次の瞬間、セラフィナの身体がふわりと持ち上がった。
「……!」
王妃が息を呑む。
エレノアが目を見開く。
ユリウスが思わず一歩出る。
レオニスだけが、その場に膝をついたまま手をセラフィナに伸ばす。
「待ってくれ、頼む、連れて行くな」
レオニスの悲痛な声が神殿に響く。
セラフィナの身体は、眠ったまま、やわらかな光の中へ浮かび上がる。
広がっていた白銀の髪がゆるやかに垂れ、その一本一本が水を含んだ糸のようにきらめいた。衣の裾も、目に見えない水の流れに揺られているかのように静かに波打つ。
魚はセラフィナの周囲を巡り始めた。
一周するたびに光が増す。
二周、三周と巡るごとに、弾ける水の粒があたりへ散り、最奥の間を深碧の星空のように満たしていく。
神殿の床も、柱も、円環も、その光を受けてもう一度だけ目覚めたように淡く輝いた。
あまりに美しくて、誰も声を出せなかった。
そして魚がセラフィナの胸の前へ戻った時、光が一気に収束する。
魚はためらうことなく、その胸へ飛び込んだ。
水が弾けた。
大きな音ではない。
けれど神殿中に澄んで響く、清らかな飛沫の音だった。深碧の光が花のように開き、セラフィナの身体を包み込む。
レオニスは息をすることも忘れて見上げた。
光の中で、セラフィナの胸が、かすかに上下した。
一度。
ゆっくりと。
そしてもう一度。
「……っ」
レオニスの喉が詰まる。
生きている。
その事実が理解に落ちてきた瞬間、張りつめていたものが切れた。
目から、今度ははっきりと涙が溢れる。
彼はそれを拭いもしなかった。
ただ見上げたまま、泣いていた。声もなく、子どものように無防備に。
やがて光が静かにほどけ、セラフィナの身体がゆっくりと降りてくる。
足先が床へ触れる。
膝がわずかに揺れた、その身体を、今度こそレオニスが受け止めた。
「セラフィナ様」
声が震えていた。
セラフィナの睫毛が、かすかに揺れる。
閉じていた瞼がゆっくりと開く。深い海の底を見てきたような青緑の瞳が、少しだけ焦点を迷わせ、それから目の前の人を見つける。
「……レオニス」
夢から戻ったばかりのような、細い声だった。
その一言で、レオニスは泣き笑いのように顔を歪める。
言葉が出ない。頷くことしかできない。
「はい」
それだけ返す声が、ひどく掠れていた。




