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第25章 還るひと②

 

 ***




 あたたかな、真綿に包まれているような心持ちで、セラフィナは目を覚ました。

 それまでセラフィナを煩わせていた身体の痛みはなく、ゆっくりと身を起こすと、視界は乳白色のあかりに満たされていた。


 どこまでもやわらかい光だった。それは白耀石の光にも似ている。

 目を凝らしても壁も天井も見えない。ただ、白く、淡く、やさしいものだけが、彼女のまわりをたゆたっている。


 不思議と怖くはなかった。

 寒くもなく、苦しくもない。咳も、胸を裂くような痛みも、指先を蝕んでいた冷えも、なにもかもが遠くなっていた。


「……ここは……?」


 声にすると、ひどく澄んだ音がした。

 その響きが溶けるように消えたあと、しんとした白の中に、ひとつの気配が生まれる。


 水の揺らぎのようなものだった。


 セラフィナの前、乳白の光の中に、細い銀の線がひらめく。

 それは一筋では終わらず、二筋、三筋と尾を引き、やがて透きとおる鱗を持つ魚の形を取った。


 息を呑む。


 見覚えがあった。

 ずっと、自分の中にいたものだ。肌の下で脈打ち、ときに熱を持ち、ときに暴れるように身をよじっていた存在。


 魚は光の中を泳いだ。

 水などないはずなのに、その尾がひるがえるたび、あたりに淡い波紋が広がっていく。小さな魚体はまばゆいほど美しく、白銀とも薄青ともつかぬ光をまとっていた。


「あなたが……」


 言いかけた瞬間、魚はぴたりと動きを止めた。


 そして、その輪郭がほどける。


 尾は長く流れる衣の裾へ、鱗のきらめきは織り重なる薄絹の光沢へ、ひれは指先へ、背を走る光はゆるやかに波打つ長い髪へと変わっていく。

 そうして、そこに立っていたのは、あまりに美しい女だった。


 人の姿をしていても、明らかに人ではなかった。

 勿論魔のものでもなく、神々しいその姿に自然とセラフィナは膝をついた。

 白い光そのものから生まれたような肌。夜明け前の海を溶かしこんだような瞳。衣も髪も境目なく淡く揺れ、そのまわりだけ空気さえ静謐に澄んでいる。


 セラフィナは息をすることも忘れて、その姿を見つめた。


 女神は悲しげに微笑んだ。


「ようやく、言葉でおまえと話せます。セラフィナ」


 名を呼ばれた瞬間、胸の奥が震えた。

 懐かしいような、泣きたくなるような響きだった。


「……あなたは、だれなの」


 女神は少しだけ目を伏せる。

 それから、静かに答えた。


「我は創造神の娘。かつてこの地に満ちた穢れを鎮めるため、人の世に降ろされるはずだったものです」


 その声はやわらかいのに、世界の深いところへ沈んでいくような重みを持っていた。


「けれど、前の儀は失敗しました」


 セラフィナは黙って聞く。

 問いはたくさんあったのに、不思議と口を挟めなかった。


「本来ならば、我は神殿において、正しい器と正しい祈りのもとに権現するはずでした。けれど人は焦り、順序を違え、力だけを求めた。欠けた儀では、我は完全な姿で現れることができなかった」


 女神の瞳に、遠い昔を見るような色が宿る。


「それでも、世界を見捨てることはできなかった。ゆえに我は、おまえの魂に縒り合わされる形で、人の世へ生まれ落ちたのです。姫として生まれるその命と共に在ることでしか、もはやここへ留まれなかった」


 セラフィナはそっと自分の胸元を押さえた。

 何度も恐れ、疎み、わからずにいたものが、いまようやく輪郭を持って目の前にある。


「……わたしと、一緒に……生まれた……?」


「ええ」


 女神は近づいた。

 けれど不思議と、圧も恐ろしさもない。ただ春の水のように澄んだ気配だけが寄ってくる。


「おまえがまだ赤子であったころ、害そうとする手が向けられました」


 セラフィナの喉がかすかに鳴る。


 洗礼の夜。

 言葉にされずとも、家族と教会が抱えてきた傷が脳裏を掠めた。


「我は、おまえを守るために力を使った」


 女神の声は少しだけ痛んだ。


「神の力は本来、人の幼い肉には重すぎる。まして不完全な権現の身で、赤子の魂と肉体に深く結びついたまま力を振るえば、歪みが残る」


 白い指先が、そっとセラフィナの右手へ伸びる。

 触れる寸前で止まり、その先に淡い光が揺れた。


「おまえの身が人に触れられぬものとなったのは、その歪みゆえです。おまえは穢れを吸い、傷を引き受け、汚れを呑みこむ器となってしまった。人の肌に触れれば、その者の内にある濁りまでも限りなく引き寄せてしまう。逆もまた同じ。穢れたものが無防備におまえへ触れれば、おまえの身はそれを際限なく受け入れてしまう」


 セラフィナは、はっと息を詰めた。


 だから。

 だから、触れられなかったのだ。


 触れられれば死ぬ、その意味がやっとわかった。


「……わたし、の……」


 声が震える。


「わたしのせいじゃ、なかったの……?」


 女神の表情が、ひどくやさしく崩れた。


「おまえのせいではありません」


 その一言で、胸の奥のどこかが、音もなくひび割れた。


「おまえはなにも悪くない。生まれたそのときから、おまえはただ耐えていた。わけもわからぬまま、痛みに、孤独に、恐れに。長く、長く」


 セラフィナは唇を噛んだ。

 けれど堪えきれず、目から熱いものが落ちた。


「ごめんなさい」


 と、女神は言った。


 神が。

 目の前の、こんなにも気高く清く尊いものが、泣きそうな顔で謝った。


「我がおまえを淋しくさせた。ぬくもりを奪った。抱かれることも、手を取られることも、誰かに縋ることも、おまえから遠ざけてしまった」


 セラフィナは首を振ろうとしたが、うまくできなかった。

 涙が次から次へと零れて、視界が滲む。


「おまえはよく耐えました、セラフィナ」


 女神は告げる。


「だから、褒美を与えましょう」


 乳白の光が、ふわりと満ちた。

 その中で女神の声だけが、澄んで響く。


「おまえはもう、痛まなくてよい。望むなら、人の世を離れ、神々の静かな庭で生きることができます。病も穢れも孤独もないところで、永く安らかに在ることができる」


 セラフィナは涙を拭いもせず、その言葉を聞いた。


「あるいは他の望みでもよい。失ったもの、欲しかったもの、与えられなかったもの。時間を巻き戻すことも。おまえが願うなら、我にできる限り叶えましょう」


 なんでも。


 その響きは甘美だった。

 あまりにもやさしく、あまりにも安らかで、一瞬だけ、このままここに沈んでしまいたくなる。


 痛くない。

 苦しくない。

 誰にも怯えなくていい。

 触れられない悲しみも、置いていける。


 けれど、そのとき。


 白い光の向こうに、揺れる影が見えた気がした。


 はじめは滲んだ影だった。

 けれどセラフィナが目を凝らすと、それは次第に輪郭を結ぶ。


 神殿の床。

 崩れかけた石。

 血の気を失った人々の顔。


 そして、レオニス。


 彼はセラフィナの身体を抱き起こすこともできず、ただそのそばに膝をついていた。

 触れれば彼女を傷つけるかもしれないと知っているから、最後まで不用意に手を伸ばせない。そのくせ、泣きそうな顔で、いや、もう泣いていて、喉を潰したような声で何かを呼んでいる。


 兄も、姉も、父も、母も。

 誰もが、彼女が戻らぬものと思って絶望し、涙に顔を濡らしている。


 その顔を見た瞬間、セラフィナの胸に、鋭いほどの痛みが走った。


 痛みのないはずの場所で、たしかに痛んだ。


 帰りたい、と。

 そう思った。


 あの苦しくて、不自由で、どうしようもなく冷たいこともある世界へ。

 それでも、自分のために泣いてくれる人がいる場所へ。


「……わたしは」


 声は震えた。

 けれど今度は、はっきりと出た。


「人の世に、帰りたい」


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