第25章 還るひと②
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あたたかな、真綿に包まれているような心持ちで、セラフィナは目を覚ました。
それまでセラフィナを煩わせていた身体の痛みはなく、ゆっくりと身を起こすと、視界は乳白色のあかりに満たされていた。
どこまでもやわらかい光だった。それは白耀石の光にも似ている。
目を凝らしても壁も天井も見えない。ただ、白く、淡く、やさしいものだけが、彼女のまわりをたゆたっている。
不思議と怖くはなかった。
寒くもなく、苦しくもない。咳も、胸を裂くような痛みも、指先を蝕んでいた冷えも、なにもかもが遠くなっていた。
「……ここは……?」
声にすると、ひどく澄んだ音がした。
その響きが溶けるように消えたあと、しんとした白の中に、ひとつの気配が生まれる。
水の揺らぎのようなものだった。
セラフィナの前、乳白の光の中に、細い銀の線がひらめく。
それは一筋では終わらず、二筋、三筋と尾を引き、やがて透きとおる鱗を持つ魚の形を取った。
息を呑む。
見覚えがあった。
ずっと、自分の中にいたものだ。肌の下で脈打ち、ときに熱を持ち、ときに暴れるように身をよじっていた存在。
魚は光の中を泳いだ。
水などないはずなのに、その尾がひるがえるたび、あたりに淡い波紋が広がっていく。小さな魚体はまばゆいほど美しく、白銀とも薄青ともつかぬ光をまとっていた。
「あなたが……」
言いかけた瞬間、魚はぴたりと動きを止めた。
そして、その輪郭がほどける。
尾は長く流れる衣の裾へ、鱗のきらめきは織り重なる薄絹の光沢へ、ひれは指先へ、背を走る光はゆるやかに波打つ長い髪へと変わっていく。
そうして、そこに立っていたのは、あまりに美しい女だった。
人の姿をしていても、明らかに人ではなかった。
勿論魔のものでもなく、神々しいその姿に自然とセラフィナは膝をついた。
白い光そのものから生まれたような肌。夜明け前の海を溶かしこんだような瞳。衣も髪も境目なく淡く揺れ、そのまわりだけ空気さえ静謐に澄んでいる。
セラフィナは息をすることも忘れて、その姿を見つめた。
女神は悲しげに微笑んだ。
「ようやく、言葉でおまえと話せます。セラフィナ」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥が震えた。
懐かしいような、泣きたくなるような響きだった。
「……あなたは、だれなの」
女神は少しだけ目を伏せる。
それから、静かに答えた。
「我は創造神の娘。かつてこの地に満ちた穢れを鎮めるため、人の世に降ろされるはずだったものです」
その声はやわらかいのに、世界の深いところへ沈んでいくような重みを持っていた。
「けれど、前の儀は失敗しました」
セラフィナは黙って聞く。
問いはたくさんあったのに、不思議と口を挟めなかった。
「本来ならば、我は神殿において、正しい器と正しい祈りのもとに権現するはずでした。けれど人は焦り、順序を違え、力だけを求めた。欠けた儀では、我は完全な姿で現れることができなかった」
女神の瞳に、遠い昔を見るような色が宿る。
「それでも、世界を見捨てることはできなかった。ゆえに我は、おまえの魂に縒り合わされる形で、人の世へ生まれ落ちたのです。姫として生まれるその命と共に在ることでしか、もはやここへ留まれなかった」
セラフィナはそっと自分の胸元を押さえた。
何度も恐れ、疎み、わからずにいたものが、いまようやく輪郭を持って目の前にある。
「……わたしと、一緒に……生まれた……?」
「ええ」
女神は近づいた。
けれど不思議と、圧も恐ろしさもない。ただ春の水のように澄んだ気配だけが寄ってくる。
「おまえがまだ赤子であったころ、害そうとする手が向けられました」
セラフィナの喉がかすかに鳴る。
洗礼の夜。
言葉にされずとも、家族と教会が抱えてきた傷が脳裏を掠めた。
「我は、おまえを守るために力を使った」
女神の声は少しだけ痛んだ。
「神の力は本来、人の幼い肉には重すぎる。まして不完全な権現の身で、赤子の魂と肉体に深く結びついたまま力を振るえば、歪みが残る」
白い指先が、そっとセラフィナの右手へ伸びる。
触れる寸前で止まり、その先に淡い光が揺れた。
「おまえの身が人に触れられぬものとなったのは、その歪みゆえです。おまえは穢れを吸い、傷を引き受け、汚れを呑みこむ器となってしまった。人の肌に触れれば、その者の内にある濁りまでも限りなく引き寄せてしまう。逆もまた同じ。穢れたものが無防備におまえへ触れれば、おまえの身はそれを際限なく受け入れてしまう」
セラフィナは、はっと息を詰めた。
だから。
だから、触れられなかったのだ。
触れられれば死ぬ、その意味がやっとわかった。
「……わたし、の……」
声が震える。
「わたしのせいじゃ、なかったの……?」
女神の表情が、ひどくやさしく崩れた。
「おまえのせいではありません」
その一言で、胸の奥のどこかが、音もなくひび割れた。
「おまえはなにも悪くない。生まれたそのときから、おまえはただ耐えていた。わけもわからぬまま、痛みに、孤独に、恐れに。長く、長く」
セラフィナは唇を噛んだ。
けれど堪えきれず、目から熱いものが落ちた。
「ごめんなさい」
と、女神は言った。
神が。
目の前の、こんなにも気高く清く尊いものが、泣きそうな顔で謝った。
「我がおまえを淋しくさせた。ぬくもりを奪った。抱かれることも、手を取られることも、誰かに縋ることも、おまえから遠ざけてしまった」
セラフィナは首を振ろうとしたが、うまくできなかった。
涙が次から次へと零れて、視界が滲む。
「おまえはよく耐えました、セラフィナ」
女神は告げる。
「だから、褒美を与えましょう」
乳白の光が、ふわりと満ちた。
その中で女神の声だけが、澄んで響く。
「おまえはもう、痛まなくてよい。望むなら、人の世を離れ、神々の静かな庭で生きることができます。病も穢れも孤独もないところで、永く安らかに在ることができる」
セラフィナは涙を拭いもせず、その言葉を聞いた。
「あるいは他の望みでもよい。失ったもの、欲しかったもの、与えられなかったもの。時間を巻き戻すことも。おまえが願うなら、我にできる限り叶えましょう」
なんでも。
その響きは甘美だった。
あまりにもやさしく、あまりにも安らかで、一瞬だけ、このままここに沈んでしまいたくなる。
痛くない。
苦しくない。
誰にも怯えなくていい。
触れられない悲しみも、置いていける。
けれど、そのとき。
白い光の向こうに、揺れる影が見えた気がした。
はじめは滲んだ影だった。
けれどセラフィナが目を凝らすと、それは次第に輪郭を結ぶ。
神殿の床。
崩れかけた石。
血の気を失った人々の顔。
そして、レオニス。
彼はセラフィナの身体を抱き起こすこともできず、ただそのそばに膝をついていた。
触れれば彼女を傷つけるかもしれないと知っているから、最後まで不用意に手を伸ばせない。そのくせ、泣きそうな顔で、いや、もう泣いていて、喉を潰したような声で何かを呼んでいる。
兄も、姉も、父も、母も。
誰もが、彼女が戻らぬものと思って絶望し、涙に顔を濡らしている。
その顔を見た瞬間、セラフィナの胸に、鋭いほどの痛みが走った。
痛みのないはずの場所で、たしかに痛んだ。
帰りたい、と。
そう思った。
あの苦しくて、不自由で、どうしようもなく冷たいこともある世界へ。
それでも、自分のために泣いてくれる人がいる場所へ。
「……わたしは」
声は震えた。
けれど今度は、はっきりと出た。
「人の世に、帰りたい」




