表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

65/66

第25章 還るひと①

 


 セラフィナは座へ腰を下ろした。


 その瞬間、世界が沈んだ。

 音が遠ざかる。

 潮騒も、人の息遣いも、すべてが深い水の底へ退いていく。

 かわりに聞こえたのは、ひとつの流れだった。ずっと昔から途切れ、歪み、それでも消えずにあり続けた、古い流れの音。


 胸の奥で魚が強く打つ。

 苦しい。熱い。だがそれは壊すための痛みではなかった。

 長く縫いつけられていたものが、本来の場所へ還ろうとしている痛みだった。

 円環が深碧に開く。


 その向こうに海があった。


 浜から見た海ではない。

 もっと古く、もっと深い海。人の国が生まれる前から、ただ静かにそこにあったものの色だった。


 白い衣の娘が見えた。

 胸に魚を宿したまま、海を見て立つ背がある。

 還れなかった者の背だった。


 波の向こうから、言葉ではない願いが届く。


 ──今度こそ。


 セラフィナの目から涙がこぼれた。

「……はい」

 返事をしたつもりだった。


 声になったのかはわからない。


 魚が、胸から喉へ、額へと昇るように動く。

 苦しさに息が詰まる。肩が震え、指先が座の縁へ縋った。

 深碧の光が、セラフィナの身体の輪郭に沿って立ち上がる。


「セラフィナ!」

 レオニスの声だった。

 それが、ひどく遠い。


 光は鋭くはなかった。


 海の底まで届く月明かりのように静かで、やさしく、それでいて容赦がなかった。床の文様が一斉に光り、神殿全体を眠りから引き起こしていく。


 セラフィナの額から、魚が現れる。

 黒ずみは消え、深碧に銀を滲ませた本来の色を取り戻していた。


 あまりに美しくて、セラフィナは泣きそうになった。

 ──あなたは、呪いではなかった。

 魚は一度だけセラフィナの周囲を巡るように光り、それから円環の向こうの海へ還っていく。


 切れるのではない。奪われるのでもない。

 ほどけて、還る。

 同時に、セラフィナの身体から何かが抜けていった。

 痛みが消える。

 熱も、重さも、苦しさも、全部。

 その静けさが、恐ろしかった。


 ああ、とセラフィナは思った。

 これが終わりなのだと。

 深碧の光の中で、視界がほどける。

 海の底へ沈むように、意識が遠ざかる。


 最後に見えたのは、こちらへ手を伸ばそうとして、しかし伸ばせずにいるレオニスの姿だった。


 光が収まったあと、神殿には、ひどく重い静寂だけが残った。


 瘴気のうねりは消えていた。


 床を走っていた深碧の脈動も、円環を満たしていた光も、いまは静かな余韻だけを残して鎮まっている。

 流れは還った。

 それは、誰の目にも明らかだった。


 けれど。


 座の上で、セラフィナは動かなかった。


「……セラフィナ?」


 ユリウスの声が、信じられないほど弱く響く。


 返事はない。

 白い顔には血の気がなく、睫毛も、唇も、まるで時から切り離されてしまったもののように静かだった。さきほどまであれほど確かに息づいていたものが、すべて引いてしまったように見える。


 レオニスが駆け寄った。


「セラフィナ様」


 掠れた声だった。

 手袋越しに肩を支える。軽い。あまりにも軽くて、指先が震えた。


「……セラフィナ様」


 もう一度呼ぶ。

 返事はない。


 胸の動きも感じられない。

 目を閉じたままのその姿は、ただ眠っているようにも見えるのに、どうしようもなく冷たい静けさだけがそこにはあった。


「そんな……」


 王妃の喉から、かすれた息が漏れる。

 エレノアは口元を押さえたまま立ち尽くし、王は一歩も動けない。ユリウスの顔からは完全に色が失せていた。

 シリルでさえ、今は何も言えなかった。


 レオニスはそっとセラフィナを抱き上げる。

 座の上に置いたままにはできなかった。

 こんなにも静かなまま、深碧の石の上に一人で残しておけなかった。


 最奥の床へ膝をつき、できるだけやさしく、壊れものを扱うように横たえる。

 白銀の髪が床に流れた。海の光を宿したようなその髪が、石の上に広がるのを見た瞬間、胸の奥でなにかが音もなく軋んだ。


 レオニスは震える手で、その髪をそっとかき上げる。


 額にかかっていた細い髪を払う。

 頬の脇へ流れた髪を整える。

 そうしながら、指先が触れているのは髪だけで、決して素肌には触れないようにしている自分に、ひどく胸が詰まった。


 こんな時まで、と、どこかで思う。

 こんな時でさえ、まだ触れられない。


「……だめです」


 声が落ちた。

 自分でも驚くほど弱い声だった。


「そんなはずがない」


 誰に言っているのかもわからなかった。

 神殿にか。神にか。魚にか。あるいは、自分自身にか。


「生きて……」


 続きが、喉の奥で切れた。


 ここまで来たのに。


 彼女自身が、生きていきたいと言ったのに。


 ここへ来るまでに、何度も考えた。

 最悪の場合を。

 言い訳を。自分に言い聞かせる言葉を。

 それでも足りなかった。

 こうなる可能性があることを、どこかで知っていたからだ。

 知っていても、どこかでまだ信じていなかったからだ。

 この人が、自分の目の前で動かなくなるということを。


 頭の中が、静かになっていく。

 泣けばいいのか、叫べばいいのか、何をすべきなのかわからない。

 だから、ただセラフィナの髪をゆっくりと撫でた。

 それだけが、今の自分にできる唯一のことだった。


 ──わたしも、生きていきたい。


 そう言って、はにかんだ笑顔が脳裏に浮かぶ。その瞬間レオニスは耐えきれなくなった。


 俯いた拍子に、雫が落ちる。

 石の床へ、小さく砕けた。


 自分でも、それが涙だとすぐにはわからなかった。

 ただ、次の一粒が落ちた時、ようやく気づく。


 泣いているのだ、と。


 王妃が一歩、二歩と近づきかけて、止まる。

 手を伸ばしたい。抱きしめたい。頬に触れたい。

 けれど、まだ触れていいのかわからない。


 終わったのか、還ったのか。

 あの夜から続いていた禁が、ほんとうに解けたのか。

 いま触れて、この子を本当に壊してしまうことはないのか。


 そのためらいが、長い年月の恐怖ごと王妃をその場に縫いとめていた。


「わたくし……」


 声が震える。


「どうしたら……」


 誰に問うたのかもわからない。

 王妃の両手は胸の前で震えたまま、行き場を失っていた。


「手袋越しに抱けばよかった。初めからそうすればよかった。声だけでもかけ続ければよかった。扉の前で話しかけるだけでもよかった。何年も、何年も、少しでも近づく方法がなかったわけではないのに」


 王妃は絶叫にも近い早口でそういうと床に崩れ落ちる。

 その背を王が抱いた。


「我々は怖かっただけだ。間違えることが。届かないことが。何かの拍子に、この子の命をこの手で終わらせてしまうことが。その恐怖が、愛情のふりをして、この子をこんな形で逝かせてしまった」


 王ではなく、父としての悔恨の言葉にエレノアがついに膝をつく。

 ユリウスは目を覆い、低く息を吐いた。

 みな、セラフィナから目を逸らせないまま立ち尽くしている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ