第25章 還るひと①
セラフィナは座へ腰を下ろした。
その瞬間、世界が沈んだ。
音が遠ざかる。
潮騒も、人の息遣いも、すべてが深い水の底へ退いていく。
かわりに聞こえたのは、ひとつの流れだった。ずっと昔から途切れ、歪み、それでも消えずにあり続けた、古い流れの音。
胸の奥で魚が強く打つ。
苦しい。熱い。だがそれは壊すための痛みではなかった。
長く縫いつけられていたものが、本来の場所へ還ろうとしている痛みだった。
円環が深碧に開く。
その向こうに海があった。
浜から見た海ではない。
もっと古く、もっと深い海。人の国が生まれる前から、ただ静かにそこにあったものの色だった。
白い衣の娘が見えた。
胸に魚を宿したまま、海を見て立つ背がある。
還れなかった者の背だった。
波の向こうから、言葉ではない願いが届く。
──今度こそ。
セラフィナの目から涙がこぼれた。
「……はい」
返事をしたつもりだった。
声になったのかはわからない。
魚が、胸から喉へ、額へと昇るように動く。
苦しさに息が詰まる。肩が震え、指先が座の縁へ縋った。
深碧の光が、セラフィナの身体の輪郭に沿って立ち上がる。
「セラフィナ!」
レオニスの声だった。
それが、ひどく遠い。
光は鋭くはなかった。
海の底まで届く月明かりのように静かで、やさしく、それでいて容赦がなかった。床の文様が一斉に光り、神殿全体を眠りから引き起こしていく。
セラフィナの額から、魚が現れる。
黒ずみは消え、深碧に銀を滲ませた本来の色を取り戻していた。
あまりに美しくて、セラフィナは泣きそうになった。
──あなたは、呪いではなかった。
魚は一度だけセラフィナの周囲を巡るように光り、それから円環の向こうの海へ還っていく。
切れるのではない。奪われるのでもない。
ほどけて、還る。
同時に、セラフィナの身体から何かが抜けていった。
痛みが消える。
熱も、重さも、苦しさも、全部。
その静けさが、恐ろしかった。
ああ、とセラフィナは思った。
これが終わりなのだと。
深碧の光の中で、視界がほどける。
海の底へ沈むように、意識が遠ざかる。
最後に見えたのは、こちらへ手を伸ばそうとして、しかし伸ばせずにいるレオニスの姿だった。
光が収まったあと、神殿には、ひどく重い静寂だけが残った。
瘴気のうねりは消えていた。
床を走っていた深碧の脈動も、円環を満たしていた光も、いまは静かな余韻だけを残して鎮まっている。
流れは還った。
それは、誰の目にも明らかだった。
けれど。
座の上で、セラフィナは動かなかった。
「……セラフィナ?」
ユリウスの声が、信じられないほど弱く響く。
返事はない。
白い顔には血の気がなく、睫毛も、唇も、まるで時から切り離されてしまったもののように静かだった。さきほどまであれほど確かに息づいていたものが、すべて引いてしまったように見える。
レオニスが駆け寄った。
「セラフィナ様」
掠れた声だった。
手袋越しに肩を支える。軽い。あまりにも軽くて、指先が震えた。
「……セラフィナ様」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
胸の動きも感じられない。
目を閉じたままのその姿は、ただ眠っているようにも見えるのに、どうしようもなく冷たい静けさだけがそこにはあった。
「そんな……」
王妃の喉から、かすれた息が漏れる。
エレノアは口元を押さえたまま立ち尽くし、王は一歩も動けない。ユリウスの顔からは完全に色が失せていた。
シリルでさえ、今は何も言えなかった。
レオニスはそっとセラフィナを抱き上げる。
座の上に置いたままにはできなかった。
こんなにも静かなまま、深碧の石の上に一人で残しておけなかった。
最奥の床へ膝をつき、できるだけやさしく、壊れものを扱うように横たえる。
白銀の髪が床に流れた。海の光を宿したようなその髪が、石の上に広がるのを見た瞬間、胸の奥でなにかが音もなく軋んだ。
レオニスは震える手で、その髪をそっとかき上げる。
額にかかっていた細い髪を払う。
頬の脇へ流れた髪を整える。
そうしながら、指先が触れているのは髪だけで、決して素肌には触れないようにしている自分に、ひどく胸が詰まった。
こんな時まで、と、どこかで思う。
こんな時でさえ、まだ触れられない。
「……だめです」
声が落ちた。
自分でも驚くほど弱い声だった。
「そんなはずがない」
誰に言っているのかもわからなかった。
神殿にか。神にか。魚にか。あるいは、自分自身にか。
「生きて……」
続きが、喉の奥で切れた。
ここまで来たのに。
彼女自身が、生きていきたいと言ったのに。
ここへ来るまでに、何度も考えた。
最悪の場合を。
言い訳を。自分に言い聞かせる言葉を。
それでも足りなかった。
こうなる可能性があることを、どこかで知っていたからだ。
知っていても、どこかでまだ信じていなかったからだ。
この人が、自分の目の前で動かなくなるということを。
頭の中が、静かになっていく。
泣けばいいのか、叫べばいいのか、何をすべきなのかわからない。
だから、ただセラフィナの髪をゆっくりと撫でた。
それだけが、今の自分にできる唯一のことだった。
──わたしも、生きていきたい。
そう言って、はにかんだ笑顔が脳裏に浮かぶ。その瞬間レオニスは耐えきれなくなった。
俯いた拍子に、雫が落ちる。
石の床へ、小さく砕けた。
自分でも、それが涙だとすぐにはわからなかった。
ただ、次の一粒が落ちた時、ようやく気づく。
泣いているのだ、と。
王妃が一歩、二歩と近づきかけて、止まる。
手を伸ばしたい。抱きしめたい。頬に触れたい。
けれど、まだ触れていいのかわからない。
終わったのか、還ったのか。
あの夜から続いていた禁が、ほんとうに解けたのか。
いま触れて、この子を本当に壊してしまうことはないのか。
そのためらいが、長い年月の恐怖ごと王妃をその場に縫いとめていた。
「わたくし……」
声が震える。
「どうしたら……」
誰に問うたのかもわからない。
王妃の両手は胸の前で震えたまま、行き場を失っていた。
「手袋越しに抱けばよかった。初めからそうすればよかった。声だけでもかけ続ければよかった。扉の前で話しかけるだけでもよかった。何年も、何年も、少しでも近づく方法がなかったわけではないのに」
王妃は絶叫にも近い早口でそういうと床に崩れ落ちる。
その背を王が抱いた。
「我々は怖かっただけだ。間違えることが。届かないことが。何かの拍子に、この子の命をこの手で終わらせてしまうことが。その恐怖が、愛情のふりをして、この子をこんな形で逝かせてしまった」
王ではなく、父としての悔恨の言葉にエレノアがついに膝をつく。
ユリウスは目を覆い、低く息を吐いた。
みな、セラフィナから目を逸らせないまま立ち尽くしている。




