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第24章 深碧の座③

 迷いのない声だった。

 セラフィナは、その背を見つめた。


 石の神殿の中で、彼の背中だけが不思議なほど現実だった。神秘に呑まれず、役目にも言葉にもすり替えられず、ただ自分という一人の人間をここへ連れてきた背中。


 生きるため。

 その言葉が、胸の奥でゆっくりと溶けた。


 セラフィナが、生きるため。

 ──わたしが、生きる。


 それがどういうことか、頭ではまだ整理できなかった。

 ただ、ずっと誰かの役に立つために存在してきた自分の中に、今日初めて、それ以外の何かが置かれた気がした。


「お役目の前にそれは小さなことではございませんか」

 シリルは心底不思議なことのように、無邪気な子供のように首をかしげる。


 胸の奥で、なにかが静かに震えた。

 怖いと、漠然と思う。

 シリルのことも、この先のことも。

 どうしようもなく怖い。


 ここが正しい場所だと魚は告げているのに、その先が見えないことが恐ろしい。座へ至れば、本当に自分は戻ってこられるのだろうか。ようやく見つけたものを、また全部失うのではないか。


 けれど同時に、初めてだった。

 自分が何かの添え物ではなく、自分自身のままこの場所に立っていると感じるのは。

 白耀石のためでもない。教会のためでもない。

 国のためでさえ、それだけではない。

 自分が生きるために、ここまで来たのだと、そう言ってくれる人がいる。


 セラフィナはゆっくりと息を吸った。


 潮と石の匂いがした。

 深い水の底のような冷たさの中に、どうしようもなく懐かしいものが混じっている。

 胸元へ手を当てる。

 魚は静かに、けれど確かに、最奥を向いていた。


「……ここなのですね」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。

 誰も言葉を挟まない。

 王も、王妃も、ユリウスも、エレノアも、ただこちらを見ている。


「魚が、帰りたがっている」

 その言葉は、たぶん誰に向けたものでもなかった。

 自分自身へ言い聞かせるためのものだったのかもしれない。


「本当は、こわいです」

 小さくそう告げると、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 初めて、きちんと口にできた気がした。

 役目でも覚悟でもなく、ただの本音として。

 レオニスが振り向く。

 その目は揺れていたが、逸らされはしなかった。


 セラフィナはその目を見返した。

 ここへ来るまで何度も助けられた。止められた。支えられた。

 いなくなったと思った時、息ができないほど苦しかった。戻ってきたとわかった時、自分でも信じられないほど泣いてしまった。

 その全部が、今、喉元まで込み上げてくる。

 言葉にしたら崩れてしまいそうで、ずっと黙っていた。けれどここで黙ったまま最奥へ踏み込んだら、もう二度と、言葉にできなくなる気がした。


「でも、……あなたに、生きていてほしいから」


 言ってしまってから、指先が震えた。

 何を言っているのだろうと思うのに、もう引っ込められなかった。


「わたしも、生きていきたいのです」


 かすれる声は弱かったが、不思議なくらいはっきりしていた。


「だから、行きます」

 言ってから、セラフィナは自分の足で一歩を踏み出した。


 最奥の間は、ひときわ静かだった。

 そこには白耀の塔のような眩しさはない。あるのは、深い海の底に沈んだ祈りが何百年も眠り続けた末に放つ、厳かな青だけだった。


 中央に、座があった。

 王の玉座のように飾り立てられてはいない。

 けれどそれは、見た瞬間に“座”だとわかるものだった。

 人がそこに座るための形をしていながら、人ひとりのために作られたとは思えない。

 背後へ立ち上がる石の円環には、波にも似た紋が幾重にも刻まれ、その中央だけが深碧に透けるような光を宿していた。


 近づくほど、魚の熱が強くなる。

 苦しいほどではない。ただ、帰れと呼ばれている。

 セラフィナは座の前で立ち止まった。

 ここへ来るまで、自分は何度も死のことを考えた。

 いっそここで終われば楽なのではないかと、そう思った夜もあった。


 けれど今は違う。

 死にたくない、と思った。

 生きていたい。

 こんなふうに思う日が来るとは、知らなかった。

 海を見たい。風に触れたい。誰かの言葉に泣いたり笑ったりしてみたい。

 この実直で美しい土地を、もう少し歩いてみたい。

 レオニスの故郷を、ちゃんと見てみたい。ここで採れたという真珠を見てみたい。


 そのささやかな願いが、胸の奥で痛むほど愛しかった。

 だからこそ、行かなければならないのだとわかる。


 ゆっくりと、手を伸ばす。

 白い手袋に包まれた指先が、深碧の座の縁へ触れようとする。

 その瞬間、神殿の奥深くで、眠っていた流れが目を開ける気配がした。


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