第24章 深碧の座②
沈んでいたものが浮かび上がるというより、深い海が一時だけその座を明け渡したのだと、セラフィナは感じた。
古く、厳かで、気高く、あまりに大きい。
白耀の塔のように人を拒む高さではないのに、近づくほど、自分が小さなものに思えてくる。
「……これが」
誰の声だったのかもわからなかった。
王も、王妃も、ユリウスも、しばし言葉を失っていた。
一部ついてきていた教会側の者たちもまた沈黙している。だが、その沈黙の意味はひとつではない。畏れ、困惑、否定しきれない奇跡への戸惑い。そうしたものが入り混じって、誰の顔にも浮かんでいた。
その中で、シリルだけが静かだった。
潮風に白い衣を揺らしながら、彼は神殿を見上げている。その横顔は相変わらず穏やかで、美しい。けれどその眼差しの底には、理解ではなく確信があった。
──やはり姫殿下の御役目は尊い。
言葉になる前から、そう語っている目だった。
神殿へ続く石の道が、海の上に露わになる。
レオニスが一歩前へ出る。
「行きましょう」
セラフィナは頷いた。
一歩踏み出すたび、胸の奥の魚が静かに熱を返した。
ここだ、と告げている。苦しみではなく、帰還の予感として。
神殿の中は、外から見た以上に広かった。
高い天井は水の色を映したように暗く、柱は何人が手を回しても足りないほど太い。床も壁も石でできているのに、冷たさより先に、長い長い祈りの蓄積を感じた。刻まれた文様は装飾ではなく、流れそのものを形にしたもののようで、眺めているだけで目が吸い寄せられる。
ところどころに残る壁画には、大きな魚の影と、白い衣をまとった娘たちの姿が描かれていた。寄り添い、共に在るものとして並んでいる。
その事実だけで、セラフィナは胸の奥が痛んだ。
呪いではなかったのだ。
最初から、あれは自分を喰うものではなく、共に還るべきものだったのだ。
では、何がすべてを壊したのか。
その問いの答えを、もう知っているからこそ痛い。
「この石碑を見て」
エレノアの声に一同は足を止めた。
水に浸かっていたからか文字は掠れているが、なんとか読める。
『
先の神子姫、ここに斃る
そののち穢れは地に満ち、都は保たれず
王、民を生かすため、都を移す
白き石を新しき地に据え、しばしこれを鎮む
』
それは現在の王都に旧都から遷都された理由が示されている。
「どうしてこんな大切なことが失われたんだ」
ユリウスの言葉に一同は言葉を飲み込む。
「隠したのだろう、儀式の失敗を」
国王の言葉は重く響く。
「石に権威を持たせたい教会と、儀式を失敗した我々の利害があった。だから石は加護であると定義し、本当の歴史が消し去られた」
まるで独白のようなその声には珍しく悔しさが滲んでいる。
セラフィナはなんの言葉もかけられなかった。
セラフィナの前を歩いていたレオニスが、とある石碑の前で足を止めた。
彼は刻文を目で追い、何度か確かめるように読み返す。その横顔が、次第に硬くなっていくのが見て取れた。
「どうしました」
問いかけると、レオニスはすぐには答えなかった。
やがて低く言う。
「さっきからどの石碑にも……姫が生きて座へ至れ、とある」
「ええ」
「その後が、ないのです」
セラフィナは息を止めた。
「ない……?」
「座へ至るべし。そのために流れは開かれる。魚とともに還るべし──そこまではある。ですが、その先が記されていない」
レオニスの声は落ち着いていた。
けれど、それがかえって不安を深くした。
今まで彼は、神殿へ行かなければならないことを疑わなかった。ここへ来れば、少なくとも進むべき道はあるのだと信じていた。
その彼が、初めて迷いに触れている。
座に着いたあと、どうなるのか。
戻れるのか。戻れないのか。
魚は生きるのか。自分は。
誰も知らない。
神殿の空気が、急にひどく冷たく感じられた。
胸の奥の熱だけが、そこに逆らうように微かに灯っている。
「ここまで来て、なおそのようにためらわれるのですか」
静かな声が、背後から響いた。
振り返ると、シリルが石柱の陰から進み出ていた。最奥までは入り込まず、けれど遠すぎもしない距離に立ち、こちらを見ている。
「姫殿下。これは長く失われていた御座なのでしょう。ようやく辿り着かれたのです」
「……」
「この国のため、流れのため、あなたが果たされるべき御役目は、もう目の前にございます」
穏やかで、柔らかい声音だった。
責める響きもない。強いる口調でもない。
だからこそ、その言葉は冷たかった。
セラフィナの足先から、わずかに熱が引く。
シリルの言葉には、嘘がない。
それがかえって、息苦しかった。
彼はセラフィナを道具として使おうとしているのだと思っていた。けれど、そうではない。
むしろ逆だ──この人は本当に、自分の役目が尊いものだと信じている。
その確信が、どんな脅しよりも深く、逃げ場を塞ぐ。
責められているのではない。祀り上げられているのだ。
ひとりの女として立っていた足元が、また静かに、祭壇の段へと作り替えられていく気がした。
やはりこの人は、最後までそこなのだと思う。
苦しみも、恐れも、迷いも、すべては役目の前に整えられるべきものとしてしか見ていない。
そのとき、レオニスが一歩前へ出た。
「この方は」
声は低く、短かった。
「あなたの言う“そのため”に生きているのではない」
空気が張りつめる。
シリルはわずかに目を細めた。だが表情は崩さない。
「では、何のためにここまで来られたのです」
「この方が、生きるためです」




