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第24章 深碧の座①

 馬の揺れは、いつまで経っても身体に馴染まなかった。


 はじめのうちは、ただ高いことが怖かった。足の裏のどこにも地面がなく、わずかな重心のずれで身体ごと振り落とされてしまいそうで、息をするたび胸の奥がひゅっと縮んだ。

 だが、しばらく走るうちに、それどころではなくなった。揺れは絶え間なく背や腰を打ち、熱の残る身体から少しずつ力を奪っていく。咳をこらえれば胸が焼けるように痛み、こらえきれずに漏らせば、今度は息が乱れて視界が白く揺れた。


 それでも、止まりたいとは言えなかった。


 止まれば間に合わなくなる気がした。

 いま自分の中でかすかに息づいているものが、そのあいだにも遠ざかっていく気がした。


 背後から支えるレオニスの腕は、必要なぶんだけ確かで、必要以上に強くはなかった。手綱を操るたびに外套越しに伝わる体温と、時折低く落ちる短い声だけが、セラフィナを辛うじて現実につなぎ止めていた。


「少し飛ばします」

「……はい」

 言葉はそれだけで十分だった。

 速さが増すたびに怖さも増したが、不思議と、彼の声があるかぎり落ちることはないように思えた。


 旧都を離れてどれほど走ったのか、もうよくわからない。空は相変わらず薄く濁っていたが、都の近くに満ちていた息苦しい圧迫感は、少しずつ質を変えていった。あちらでは瘴気は重たく澱み、そこにいるだけで肺の内側まで汚されるようだったのに、こちらでは風に引き伸ばされ、遠くから見えないものがこちらを窺っているような気配になる。


 胸元へそっと意識を向ける。

 魚はまだいる。弱っている。けれど、旧都にいたときのような苦しい拒絶ではなく、今はただ、ひとつの方角を静かに指し示していた。


 海の方へ。


 それは、道を知っている者の確信のようでもあった。


 やがて景色が変わりはじめた。


 乾いた土の色が薄れ、代わりに草木の緑が濃くなる。風は少しやわらかくなり、どこか湿り気を帯びていた。遠くの丘はなだらかで、その向こうへゆるやかに空が落ちていく。

 ところどころに見える小さな畑や、素朴な石造りの家々は華やかではなかったが、ひどく整って見えた。誰かが必要なものだけを大切に積み重ねて暮らしてきた土地なのだと、一目でわかる。


 ──このひとの故郷なのだ。

 そう思った瞬間、なぜか少しだけ胸がほどけた。

 派手ではない。贅もない。

 けれど、誤魔化しのない景色だった。

 風も、石垣も、道端の木々も、黙ってそこにありながら、ひどく実直で、美しかった。

 まるでレオニスのようだ、と、ふと思う。


 口数が少なく、飾らず、ただ必要なことをきちんと果たす。

 どこか不器用なくらいまっすぐで、それでいて、見ようとしなければ気づけない静かな優しさがある。

 その人の生まれた土地が、こんなふうであることに、セラフィナは不思議な納得を覚えた。


「……きれいなところ、なのですね」

 自分でも思っていなかった言葉が、揺れに紛れるようにこぼれる。

 背後で、レオニスがほんのわずか黙った。

「何もありません」

「そんなこと……ありません」

 息を整えながらそう返すと、しばらくしてから、低い声が落ちた。

「海が見えれば、もう少しです」

 それはたぶん、この土地を褒められたことへの返事ではなかった。

 だがレオニスらしい答えだと、セラフィナは思った。


 しばらくすると、本当に風の匂いが変わった。

 嗅いだことのない、潮の匂いだった。

 塔の高窓から遠く眺めるだけだった海とは違う、生きた匂い。湿った塩気が喉を掠め、頬を撫でていく。視界の先で空が大きく開け、その下に深い色が広がっていた。

 海だ。

 セラフィナは思わず目を見張った。

 塔から見た海は、ただ遠く光るものだった。晴れた日に空と溶け合い、手の届かない景色の一部としてきらめくだけのもの。

 けれど今、目の前にある海は、もっと重く、深く、息づいていた。寄せては返す波のひとつひとつに意思があるようで、その底にどれほどの時間が沈んでいるのか、考えるだけで眩暈がした。


 海の色は深かった。

 晴れた日の明るい青ではない。曇天の下でなお失われない、濃い青緑。いつか、レオニスに、自分の瞳に似ているのだと以前言われたことを、ふと思い出す。

 ──海の色は、セラフィナ様の瞳に似ています。

 いつ彼がそう言ったのか、もう曖昧だった。ただ、その色が今、目の前にあった。

 一行が浜へ近づくころには、先に到着していたローゼンフェルトの兵や領民たちが、張りつめた面持ちで海を見守っていた。誰も大きな声を上げず、ざわめきさえ潮騒に呑まれている。ここへ来るまでにすでに何かが伝わっていたのだろう。彼らの視線は、好奇や恐れよりも、言葉にしがたい祈りに近かった。

 馬が止まる。

 支えられて地に降りた瞬間、膝が危うく折れそうになった。地面があるはずなのに、身体はまだ揺れを覚えていて、足元がひどく頼りない。咳をこらえきれずに肩を震わせると、胸が鋭く痛んだ。


「無理をなさらず」

 低い声とともに、すぐ傍へ手袋越しの手が差し出される。

「……平気です」

「平気には見えません」

「でも、立てます」

 そう答えると、レオニスはそれ以上は言わなかった。ただ、すぐ隣に立ち続ける。それだけで十分だった。


 海を前にすると、魚がはっきりと動いた。

 胸の奥で、ひどく静かな熱が揺れる。苦しいのではない。むしろ逆だった。長いあいだ迷っていたものが、ようやく帰る場所を見つけたときのような、深い引力。

 思わず、衣の上から胸元を押さえる。


「セラフィナ」

 振り向くと、ユリウスの向こうに、見慣れた姿があった。


 王と王妃、そして姉の姿だった。

 速馬で駆けたのだろう。旅装のままの三人は、王都で見るときのような整い方ではなく、明らかな疲労をそのまま纏っていた。王妃も姉も髪は風に乱れ、裾には砂がついている。けれどその姿が、かえって胸に迫った。


 本当に、来たのだ。

 間に合った安堵よりも、ここから先を見届けようとする切実さが、そのまま三人の顔にあった。

 王妃の目がセラフィナを捉える。

 何か言いかけるように唇が揺れたが、結局、声にはならなかった。

 セラフィナもまた、すぐには何も言えなかった。ただ、こんな場所で再び向かい合うことになるとは思っていなかったと、ぼんやり思った。


 そのとき、レオニスの左手がわずかに上がる。

 腕輪の石が、深い水を閉じ込めたような色で光っていた。

 ほぼ同時に、胸の奥の魚が強く打つ。自然とセラフィナは手のひらを腕輪の石に触れさせた。

 それと同時に、海が鳴った。


 音だったのか、振動だったのか、最初はわからなかった。

 足元から、ひどく古いものが目を覚ますような気配が伝わってくる。波が一度、呼吸を忘れたように止まり、次の瞬間、沖合で水面が大きく盛り上がった。


 誰かが息を呑む。

 海が割れる、というほど露骨ではなかった。

 むしろ、それはずっと以前からそこにあったものが、隠していた姿をゆっくり現すだけのように見えた。


 深碧の光が、海の底から滲み出す。

 それは白耀石の白い光とはまるで違っていた。

 白耀が、地上の人間に向けて掲げられた奇跡なら、こちらは海そのものの記憶のようだった。深く、静かで、容易には触れられない色。見上げるのではなく、見下ろされるような荘厳さがあった。

 沖に沈んでいた巨大な石の輪郭が、まず現れた。

 ついで柱が見え、そのあいだをつなぐ回廊が現れる。どれも人の築いた建築でありながら、人のためだけのものとは思えない規模だった。潮を払って立ち上がるたび、古い石肌に刻まれた文様が濡れた光を返す。海草すら、そこでは装飾の一部のように見える。


 神殿だった。


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