第23章 深碧へ③
命令であると同時に、ようやく定まった決意のようでもあった。
セラフィナは息を止めた。
止める兄だったはずの人が、今その口でそう言った。石ではなく、自分を。王家の宝ではなく、ずっと遠ざけられ、石と対のもののように扱われてきた妹を。
胸の奥へ、なにか温かいものがゆっくり沁みていく。
それは救いというにはあまりに遅く、あまりに小さいものだったかもしれない。けれど確かに、自分は今、選ばれたのだと思った。石ではなく。役目でもなく。少なくとも兄は、そうしてくれた。
なお石に執着する声が残ろうとした時、レオニスが短く言った。
「白耀石は不要です」
その言葉を、今度はセラフィナが引き取る。
胸元へそっと手を当てる。衣の下で、魚が海の方を向いている。
「……わたしも、そう思います」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
白耀石のそばで生きてきた。白耀石と一緒に閉じ込められ、白耀石と対のもののように扱われてきた。あの石を見上げながら、どれほどの夜を過ごしたかわからない。
苦しかった夜も、ひとりきりで息を殺した朝も、咳をこらえながら見上げた白い光も、全部あの石の下にあった。
けれど今、その石はもうこちらを呼ばない。
魚はもう、海の方だけを見ている。
どこへ行けばいいのかわからずにいたのに、今はひとつの場所だけを指している。
それはおそらく、自分が初めて迷わずに踏み出せる道だった。
「わたしは、行きます」
部屋が静かになる。
ユリウスが何か言いかけて、飲み込む。レオニスの目がわずかに揺れる。けれど今度は、誰もすぐには止めなかった。
「生きて、行かなければならないのでしょう」
「……はい」
「なら、わたしが行きます」
言ってしまってから、胸の奥が少しだけ震えた。
怖くないわけではない。座へ至ったあと、どうなるのかは誰にもわからない。神殿へ行けば助かると、誰も約束してくれない。
それでも行くと言えたのは、もう逃げる道がないからだけではなかった。
ようやく辿り着ける場所があるのだと、魚が告げている気がしたからだ。
その言葉に、レオニスはゆっくり頷いた。
止めるのではなく、受ける頷きだった。
その静かな肯定に、セラフィナはわずかに息をつく。
「急ぎましょう」
その一言で、再び空気が動く。
ユリウスもすぐに切り替えた。
「馬を引け」
「殿下、御車を──」
「要らぬ。間に合わん」
侍女や側近が慌ただしく動き出す。だが取るものは本当にわずかでよかった。外套、水、包帯、最低限の薬。長い支度をしている時間などどこにもない。
「姫殿下は私の馬へ」
レオニスに向かい、セラフィナは頷いてみせる。
「先に外で待っていてください」
「……ええ」
立ち上がるだけでも身体は重かった。熱に浮かされたあとのように足元が頼りない。それでも侍女たちに外套を羽織らせてもらいながら部屋を出る。
背後ではまだ、ユリウスが命を飛ばしていた。
「私も行く。王家の騎士は私について来い。数は要らぬ、遅い者は置いていけ」
「王と王妃には」
「速馬で知らせる。神殿へ直行するように」
その命が飛んだ時、ユリウスは机の上の紙に気づいた。
置き去りにされたままの手紙が二通。ひとつは王家宛て。もうひとつは、見覚えのある名が書かれている。
ユリウスは無言のまま二通を取り上げる。家族宛ての方へ先に目を通し、表情をわずかに変えた。深く息を吐き、紙を畳んで側近へ渡す。
「これを父上たちへ。急報と一緒に持たせろ」
それから、もう一通をレオニスの胸へほとんど押しつけるように差し出した。
「おまえ宛てだ」
レオニスは一瞬だけ目を上げたが、何も言わずそれを受け取った。
封もされていない、途中で止まった紙。視界の端に入った一文だけで十分だった。
それだけで胸のあたりが妙に熱くなる。
だが今はそれをゆっくりと読む時間も、立ち止まる時間もない。レオニスは黙って懐へしまった。
外へ出ると、空はまだ濁っていた。人々のざわめきは白耀石のある方へ集まっている。石へ、石へと縋る視線が流れていく。その背を見ながら、セラフィナは何も感じなかった。
もう、あちらではない。
魚もまた、白耀の方は見ない。
海の方へ。
深碧の方へ。
馬が引かれてきた。レオニスの黒馬は泡を噛みながらも、なお耳を立てている。近くで見れば思っていたよりずっと大きい。高い背、硬い筋肉、荒い鼻息。その生きものの力強さに、セラフィナは一瞬だけ息を止めた。
馬に乗るのは、初めてだった。
本当なら怖い、と言ってしまいたかった。
こんな高さは知らない。落ちたらどうなるのかもわからない。身体はまだ怠く、咳のたびに胸も痛む。
けれど今さらそんなことを言っている場合ではない。魚がかすかに急かすように動く。時間がないと、静かに告げている。
セラフィナは手袋の金具を確かめ、外套の合わせを握りしめた。
レオニスが手袋をした手を差し出す。
「……お乗せします」
その言い方が、怯えを見抜いたうえで何も問わないものだったので、セラフィナはかえって少しだけ落ち着いた。
頷き、手袋越しに支えられ、どうにか鞍へ上がる。
高い、と思った瞬間にはもう遅かった。
足元が遠い。視界がぐらりと揺れて、思わず身体がこわばる。指先に力が入り、喉がひゅっと鳴る。
「大丈夫です」
低い声がすぐ後ろから落ちた。
その一言だけで、不思議なくらい息が戻る。
大丈夫なわけがない、と理性は思う。怖い。揺れる。心臓が早い。けれど、その声が背後にあるだけで、落ちてしまう気はしなかった。
どうにか前を向く。
ユリウスも馬へ乗った。王家の騎士たちがそれに続く。
「行くぞ」
短い号令が落ちる。
次の瞬間、一行は旧都を蹴るように駆け出した。
想像していたより、ずっと激しく揺れた。息が詰まり、反射的に前の鞍へしがみつきそうになる。けれど背後から回る腕が、外套越しに確かに身体を支えていた。
怖い、と思った。
それでも降りたいとは思わなかった。
今はただ、間に合わなければならない。
馬車で行くような旅ではない。供を整えている暇もない。揺れは激しく、風は冷たく、空気はなお濁っていた。咳をこらえるたび胸が痛み、身体の芯が軋む。
けれど速度だけが、今は何よりも必要だった。
石に群がる人々を後ろへ置いて、白耀の世界を振り切るように。
セラフィナは前を見た。
遠く、まだ見えない海の方角へ。深碧の神殿へ。
魚は弱っている。時間は残っていない。
けれど、まだ生きている。自分も、魚も、レオニスも。
ならば間に合わせるしかない。
薄暗い空の下、馬蹄の音だけが鋭く地を打つ。
一行は、深碧へ向かって駆けた。
その先に待つものが救いかどうかは、誰にもわからなかった。
深碧の神殿へ至ればすべてが終わるのか、それともようやく本当の痛みが始まるのか。古い記録は沈黙したままだ。
それでも、もう引き返す道はなかった。白耀の光ではなく、海の底に眠る深い色へ。石ではなく、生きたままの自分自身を運ぶために。
風を裂いて走る馬の背で、セラフィナは揺れに耐えながら、まだ見えぬ海を思った。胸の奥の魚は弱りながらも、確かにそちらを向いている。ならば、そこが行くべき場所なのだ。
こうして一行は、白耀の塔に閉じ込められていた姫を連れて、深碧の神殿へと急いだ。




