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第23章 深碧へ②

 セラフィナの言葉に、ユリウスはすぐには答えなかった。黙り込んだまましばらくレオニスを見て、次いで寝台の上のセラフィナへ目を移す。


 その視線の重さに、兄が今、王家の人間として決めようとしているのだとわかった。

 妹を守りたい兄と、国を背負う皇太子のあいだで、ぎりぎりまで立っている目だった。


 やがてユリウスは短く息を吐くと、扉の方を振り返った。


「控えを入れろ」


 外で待っていた者がすぐに応じる気配がする。足音が重なり、扉の向こうの空気がにわかに慌ただしくなった。


「……ここで、ですか」


 セラフィナがかすれた声で問うと、ユリウスは一瞬だけ迷うように目を伏せた。寝台の脇で泣きじゃくったばかりの妹を、こんなに早く現実へ引き戻すのは酷だとわかっている顔だった。


「本当は休ませたい」


 そう言ってから、兄は目を上げる。


「だがもう時間がないのだろう」


 問う形ではなかった。確認ですらなかった。認めるしかない現実として、静かに落ちた言葉だった。


 セラフィナは胸の奥でかすかに動く魚を感じながら、黙って頷いた。

 それからゆっくりと身体を起こし、寝台の端に腰を下ろす。背にふわりとクッションが差し入れられた。レオニスだった。


 ほんの小さな気遣いなのに、それだけで張りつめていた息が少しほどける。

 泣いていたことも、取り乱したことも、みっともないことも、すべて見られてしまったあとでさえ、彼はなにも変えない。変えずにそこにいる。

 その事実が、ひどく頼りなくなっている心をかろうじて支えてくれた。


 ほどなくして扉が開き、側近たちが入ってくる。その中に教会側の人間も混じっていた。人数が増えた途端、たちまち空気が硬く変わっていく。


 レオニスの説明が終わったあと、部屋にはすぐには声が戻らなかった。

 白耀石が仮の封じにすぎず、姫は生きたまま神殿へ至らなければならない──それはあまりに大きな話だった。誰もが意味を量りかねているのがわかった。


 その沈黙を破ったのは、教会側ではなく、王家の側近の一人だった。


「……失礼ながら」


 硬い声だった。


「その話は、すべてローゼンフェルト殿お一人が見聞きしたことに基づくのですね」


 空気が少しだけ変わる。

 セラフィナは目を上げた。


「壁画、石碑、古文書があったと仰る。ですが、それをこの場で確かめる術はありません」

「……」

「しかも行き先は、あなたご自身の領地だ」


 レオニスの表情は動かなかった。

 だが部屋の空気は、確かに疑いの方へ傾いた。


「まさかとは思いますが」

 と、別の貴族が言葉を継ぐ。

「白耀石をそこへ運び、ご自領だけを守るおつもりではありますまいな」


「──ッ」


 セラフィナは思わず息を呑んだ。


 そう来るのか、と思った。

 神殿の話が本当かどうかではなく、結局は石がどこへ行くのか。誰のものになるのか。そこへ話を戻したいのだ。


「姫殿下を伴えば、大義名分は立つ」

「海辺へ石を移せば、流れの要を押さえたと称することもできましょう」

「そもそも奈落の先が本当にその地へ通じていたのかさえ──」


「違います」


 レオニスが初めて、少しだけ強く言った。


 声は低いままだったが、部屋のざわめきを断つには十分だった。


「石は不要です」

「不要だと言いながら、姫と石はひとつなぎではないですか」

「私は、姫殿下に生きていただきたいだけです」


 その一言は短く、飾りがなかった。

 だからこそ、かえって部屋の中で浮いた。

 石の話をしている者たちと、レオニスとでは、見ているものがまるで違うのだとわかってしまったからだ。


 だが、それでも疑いは消えない。

 教会側の男がここぞとばかりに口を開く。


「やはり危うい」


 その目はレオニスではなく、ユリウスへ向いていた。


「騎士一人の証言に国の礎を賭けるなど、軽々しく決すべきではありませぬ」

「しかも白耀石を旧都から離すなど──」

「姫殿下まで伴って海辺へ向かうなど、あまりに危険です」


 そこまで聞いて、セラフィナは目を伏せた。

 誰も彼も、結局は石なのだと思った。

 自分ではなく、石がどこへ行くのか。誰の手に渡るのか。どこを守るのか。そこにばかり心が向いている。


 ユリウスやレオニスが言葉に詰まっているのを見ると、教会の人間たちはここぞとばかりに言葉を重ねた。


「少なくとも、白耀石には瘴気を抑えてきた実績がある」

「石をここへ留め置くべきです。旧都さえ抑えられればきっと……」

「今までのように姫殿下もここに残られれば、均衡は保たれます」


 ──今までのように。


 その言い方に、胸の奥がかすかに冷えた。

 今までのように。石のそばで。塔の中で。触れられず、見上げられ、恐れられ、必要な時だけ奇跡を求められる存在として。


 やはりそうなのだ、と思った。

 石と一緒に、ここへ置いておきたいのだ。

 神殿へ行かせたくない理由は、石を手放したくないからで、自分はその添え物にすぎない。その声は隠しもせず告げている。


 窓の外からも似たざわめきが聞こえていた。欠けた白耀石のまわりには、今も人が群がっているのだろう。石を守れ、石さえあれば、瘴気を呼ぶ姫などいらぬ──そんな視線が向けられているのが、見なくてもわかった。


 昔なら、その視線だけで胸が凍えた。

 自分がいらないものだと、役目だけしか求められていないのだと、改めて思い知らされるたびに、息もできなくなるほど苦しかった。


 熱気にあてられたように醜い興奮を隠そうともしない貴族や教会のものたちの議論を聞きながら、レオニスはそれ以上何も言わなかった。

 言っても無駄だと知っている顔だった。

 ただ、怒りより先に、ひどく冷えた諦めのようなものがその沈黙にはあった。


 その時、ユリウスが立ち上がった。


「欲しがる者にはくれてやる」


 低い声だった。

 だが部屋の空気を断ち切るには十分だった。


「殿下──」

「聞こえなかったか。あれが欲しいのなら、好きに抱えていればいい」


 ユリウスは一度だけ、白耀石のある方角へ目をやった。だがすぐに戻す。


「王家が持ち出すべきは石ではない」


 そして、妹を見た。


「セラフィナを神殿へ連れていく」


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