第23章 深碧へ①
ユリウスが部屋へ入ってきたあと、空気は一度で現実へ引き戻された。
ついさっきまで、ここにはレオニスと自分しかいなかった。
夢の続きのように曖昧で、熱に浮かされたまま泣いて、言ってはいけないことまで吐き出してしまって、それでも許されていたような、ひどく甘い時間だった。
それが扉の開く音ひとつで消えてしまう。
セラフィナは毛布を鼻先まで引き上げたまま、動くことができずにいた。泣いた顔は熱いし、目元は腫れているし、咳の余韻で喉も胸もひりついている。
なにより、先ほど自分が口にした言葉を思い出すたび、遅れて羞恥が押し寄せてきた。
──忘れてください、などと言って、本当に忘れてもらえるはずもないのに。
けれど、それでも口にせずにはいられなかった。
あんなふうに取り乱して、みっともなく泣いて、縋るようなことまで言ってしまった自分を思い出すたび、毛布の中へ消えてしまいたくなる。
ユリウスは入口で一瞬だけ立ち止まった。寝台の上の妹と、その傍らにいるレオニスを見て、なにかを飲み込むようにわずかに目を伏せる。だがそれもほんの一瞬のことだった。すぐに歩み寄ってくる。
「……体調は」
結局、最初に出たのはそれだった。
「ひどいです」
毛布の中からくぐもった声で答えると、ユリウスの口元がほんのわずかに動いた。苦笑にも、安堵にも見えたが、それもすぐに消えた。
「外はまだ収まっていない。だが昨夜ほどではない」
「昨夜、から……?」
問うたのは、今がいつなのかもはっきりしなかったからだ。身体が重い。頭も鈍い。熱に浮かされたような感覚だけが、まだどこかに残っている。
「半日ほどお眠りでした」
レオニスが短く答える。
半日。
その長さに、セラフィナは息を呑んだ。半日も眠っていたのに、世界はまだ終わっていない。そう思うと少しだけ胸がゆるむ。けれど同時に、たかが半日眠った程度でどうにかなる身体ではないことも、重たい手足が嫌でも教えてきた。
ユリウスは今度はレオニスへ向き直った。
「詳しく聞こう」
兄としてではなく、皇太子としての声だった。
「どうやって戻った。どこへ落ちた」
問いは短く、無駄がない。レオニスもまた、余計な前置きをせず答えた。
「奈落の底の流れは、ローゼンフェルト領の海へ通じていました」
「海」
「海底神殿です」
部屋の空気がわずかに止まる。
国内の地図はセラフィナも覚えている。旧都からローゼンフェルト領まではかなりの距離があるはずだった。あの奈落の底から、そんな遠くまで流されて、生きて戻るなど、本来ならありえない。
ユリウスは眉を寄せたまま、先を促す。
「流れに呑まれたあと、神殿の中枢へ流れ着きました。この腕輪の石が反応し、道を示したのです。そこで壁画、石碑、古文書を見ました」
「それで」
「白耀石は仮の封じにすぎません。本来の還し方ではない」
その一言が落ちる。
セラフィナは毛布の中で指先を強く握った。
白耀石。自分が生まれるより前から、ずっと塔の上にあり、国を守るものとして崇められてきた石。自分もまた、それと対のもののように扱われながら生きてきた。あれが仮の封じでしかないと言われても、すぐには実感が追いつかない。
「還す、とは?」
「瘴気を正しき流れに戻すことです」
ユリウスは目を細めた。驚きというより、覚悟していた答えを改めて突きつけられた顔だった。
「前の神子姫が死んだため、本来の流れが途絶えた。やむなく白耀石を現王都の礎として置き、底の流れを押さえたのだと記されていました」
「今の姫は」
「生きたまま神殿へ至らねばなりません」
生きたまま。
その言葉を聞くたび、胸の奥のどこかがきつく締まる。自分のことを言われているはずなのに、まるで他人事のようだった。
死んではならない。ただここで身を削って終わるのでは意味がない。
その現実は、救いではなかった。猶予でもなかった。ただ別の形で、逃れようのない役目が差し出されただけだった。
「白耀石は」
ユリウスがさらに問う。
「不要です」
ためらいのない声だった。
「神殿の儀に石は要りません。持ち込む意味もない」
「だが、あれは今もなお──」
「仮の封じです」
静かな声で、レオニスはそう断った。
「そして、もう限界です」
その一言に、セラフィナは思わず顔を上げた。
ユリウスも同じだった。
「限界?」
「時間がありません」
低いままだが、張りつめた声だった。その響きに、セラフィナの胸の奥でなにかが冷たく沈む。
「記録にはそこまで明記されていません。ですが、前の神子姫はただ死んだのではないのかもしれない」
部屋がしんと静まり返る。
ユリウスが目を細める。
「どういう意味だ」
「記録はそこで途切れています。ですが、前の神子姫の死後、還しは成らず、とだけある。魚がどうなったかは書かれていない」
「……」
「もし、姫の中で魚も失われたのなら、同じです」
レオニスは一度言葉を切った。
「魚の死は姫の死であり、姫の死は魚の死なのではないかと、私は考えます」
その意味を理解するのに、時間はかからなかった。
自分の中の魚が死ねば、自分も死ぬ。
自分が死ねば、魚も死ぬ。
ならば、生きたまま神殿へ至らねばならないというのは、ただ呼吸があるだけでは足りない。魚がまだ生きているうちに、自分ごと神殿へ行かなければならないのだ。
今さらのように、胸の奥へ恐怖が差し込む。
間に合わなければ終わる。
自分だけではない。この国も、流れも、ずっと先のなにかまで、もう戻らないところへ行ってしまうのかもしれない。
「今の魚は」
ユリウスの問いに、セラフィナはゆっくり息を吸った。喉がまだ痛い。熱も抜けきっていない。けれど、ここを曖昧にはできないと思った。
「……弱っています」
二人の視線がこちらへ向く。
目が覚めてからずっと、胸の底にひっかかっていた違和感がある。魚はいる。完全に消えたわけではない。熱のようなものも、かすかな気配も、まだある。
けれど、以前のように近くない。あんなにも濃く自分の内側に満ちていたものが、今は水の底へ沈んだように遠い。
「前より遠いのです」
「遠い?」
「熱はあります。でも、前みたいに強くない。力が足りないみたいに……」
言葉にしながら、その弱まりを自分で認めてしまうのが怖かった。
認めた瞬間、それは本当になってしまう気がした。
あれほどそばにいたのに、今は存在を遠く感じる。
うまく説明はできない。それでもレオニスには十分伝わったらしい。彼の表情がわずかに強張る。
「もう、あまり待てない気がします」
静かにそう言った自分の声が、思っていたよりずっと落ち着いて聞こえた。
ほんとうは怖い。怖くてたまらない。なのに、怖いと口にする暇すらもうないのだと、身体のどこかが先に悟ってしまっている。
魚が弱っている。
それは、自分もまた尽きかけているということでもある。




