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第22章 目覚めの涙②

「ここにいます」


 短い声だった。


 その一言が胸のいちばん奥へ落ちて、セラフィナは喉の奥を震わせた。


「……やだ……」

「そんなこと、言われたら……っ」


 ここにいます。そんな言葉、知らなかった。そんなふうに言ってくれる人がいることを知らなかった。知ってしまったから、余計につらい。


「もう、戻れない……あなたに会う前みたいに、知らないままには……戻れない……っ」


 泣きじゃくりながらそう言って、セラフィナは自分で自分の言葉に傷ついた。戻れない。知らなかった頃へは戻れない。優しさを知らなかった頃の方が、ずっと楽だったのかもしれない。けれど、もう戻れない。

 知りたくなかった。こんなに喪失が辛いなんて誰も教えてくれなかった。


 レオニスはしばらく黙っていた。


 やがて、ほんの少しだけ身をかがめる気配がする。直接触れはしない。ただ、呼吸が届くか届かないかの距離まで近づく。


「戻らなくていい」


 低く、掠れた声だった。


 その言葉に、セラフィナはまた泣いた。今度は声もなく、ただぼろぼろと涙だけが零れた。そう言ってほしかったのかもしれない。そう言われるのが怖かったのかもしれない。もう自分でもわからない。


 泣いて、咳き込んで、息を乱して、言葉を吐き尽くして、ようやく少しずつ身体の力が抜けていく。涙はまだ止まらないが、最初のような激しさはもうない。嗚咽が小さくなり、呼吸だけが震えていた。


 寝台の脇には、水差しと、赤く染まった布と、絞り直された新しい布が置かれている。その気配がひどくあたたかかった。


 夢なら、どうかもう少しだけ続いてほしい。


 そう願いながら、セラフィナは涙に濡れた睫毛を伏せた。だがその時、頬へまた温かな布がそっと触れた。


 びくりと身体が震える。


 夢なら、こんなふうに新しい温度は来ない。

 セラフィナは息を止めたまま、ゆっくり目を開けた。

 レオニスが、絞った布を手にしていた。


 血の名残をぬぐうため、ほんの少し身を寄せている。その仕草はあまりにも慎重で、あまりにも現実の手つきだった。

 瞬きをする。何度も。

 長い睫毛に溜まった滴が、玉のように転げ落ちた。

 目の前のレオニスは、優しい手つきでセラフィナの頬を拭った。ひどく慎重で、ひどく静かな手つきだった。

 ベッドの上で背を丸めるセラフィナを慰めるように、背中に回された手は、手袋越しでも温かい。

 じっと見つめると、灰色の瞳がやわらかく細められる。


 その瞳に映る、子どもみたいに泣き腫らした自分の姿を見た瞬間、急に現実へ引き戻された。


 もしかして、夢では、ない?


 そう気づいた瞬間、全身の血が一気に熱を持った。

 夢でないなら、今まで口にしたことが全部、本物の言葉になる。

 今まで言ったことが、遅れて全部胸へ返ってくる。寂しかった。逃げたい。来てほしかった。待っていた。戻れない。そんなものを、全部、全部、この人の前で。


「……っ」


 声にならない悲鳴みたいな息が漏れる。


 セラフィナはみるみるうちに頬を赤くした。泣き腫らした顔のまま、逃げるように顔を背けようとする。けれど身体がまだうまく動かない。


「わ、忘れてください……!」


 ようやく出た声は、嗚咽の名残でひどく掠れていた。


「今のは……っ、全部……夢だと思って……忘れてください、お願い……!」


 恥ずかしくて、今すぐ寝台の中へ沈んで消えてしまいたかった。夢だと思っていたから言えたのに。現実だとわかった途端、たった今の自分が信じられない。


 レオニスはすぐには答えなかった。


 その沈黙がなおさら恥ずかしくて、セラフィナはとうとう毛布を少しだけ引き上げ、顔の半分を隠した。


「本当に……忘れて……」


「無理です」


 あまりにも即答だった。


 セラフィナは毛布の陰で固まる。


 夢ではない。しかも忘れてももらえない。


 しばらく、誰も何も言わなかった。

 レオニスはそのままそこにいた。立ち去るでもなく、何かを言うでもなく、ただそこにいる。

 セラフィナは毛布の中で息をした。

 泣きすぎて、頭が少し痛い。喉もひりつく。それでも不思議と、胸の奥だけが静かだった。


「……いるの?」

 毛布の中から、小さく問う。

「はい」

「どこに」

「ここに」


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。その事実に、また別の涙が出そうになった時、扉の向こうで控えめな、しかし遠慮のないノックが響いた。


「入るぞ」


 ユリウスの声だった。

 返事を待つ気など最初からない声で、扉が開く。


 寝台の上で涙と熱にぐずぐずになったセラフィナ。枕元に座るレオニス。背に回された手。赤く染まった布。絞り直された湯布。ほんのわずか近すぎる距離。


 そのすべてを見たユリウスが、入口でぴたりと止まった。


 数瞬の沈黙のあと、兄は静かに片手で額を押さえた。


「……タイミングが悪かったか?」


 セラフィナは毛布を頭にかぶったまま、ほんとうに消えてしまいたくなった。


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