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第22章 目覚めの涙①

 

 目を開けるより先に、頬に残るぬくもりに気づいた。


 温かな布で、そっと何かを拭われたような感覚だった。口元にも、額にも、髪の生え際にも、ひどく丁寧に触れられたあとの静けさが残っている。乾きかけていた血や煤を、時間をかけて少しずつぬぐわれたのだと、ぼんやりした意識の底でわかった。

 そのぬくもりがひどく心地よかった。


 こんなふうに世話をされた記憶は、あまりない。


 最初に浮かんだのは、子供の頃の記憶だった。


 熱を出した夜に額へ手をあて、絡んだ髪を梳いてくれた乳母。やわらかな指先。低くて優しい声。遠い昔に置いてきたぬくもりだけが、眠りの底からゆっくりと浮かび上がってくる。


 ──マルタ?


 そう思ってから、セラフィナはかすかに眉を寄せた。


 違う。


 マルタが、ここにいるはずがない。


 重い瞼をどうにか持ち上げる。滲んだ視界の向こう、枕元に人影があった。


 最初は、誰だかわからなかった。ただ静かにこちらを見ている気配だけがある。灯りは落とされていて、部屋の中は薄暗い。その人影だけが、夢の続きのようにやわらかく見えた。


 やがて視界が少しずつ結ばれていく。


 伏せられた睫毛。長い睫毛が、灰色の石に似た瞳へ静かな影を落としている。傷んだ額。包帯の白。煤の残る襟元。決して綺麗な姿ではないはずなのに、その顔立ちだけがひどく静かで、夢の中のものみたいに整って見えた。


 この人の顔を、セラフィナは知っている。


 険しい時の目も、黙ってこちらを見ている時の癖も、ほんの少し眉が動くだけで何を考えているかがわかるようになってきたことも、知っているはずだった。


 それなのに今は、初めて見る人のように胸が苦しかった。


 レオニスだった。


 息が止まる。


 そんなはずがない、と思った。だってレオニスは、もう──


 そこまで考えて、セラフィナは目を伏せた。


 ああ、夢だわ。

 夢……

 そうでなければ、おかしい。こんなふうに優しく世話をされて、目を開けた先にレオニスがいるなんて、そんな都合のいいことがあるはずがない。


 自分はよほど疲れているのだろう。こんな都合のいい夢を見てしまうくらいには、壊れてしまっているのだ。


 そう思った途端、胸の奥で何かが切れた。


「……ぃや……」


 声にならない息が喉で引っかかる。

 目元に一気に熱が集まり、視界の中でレオニスの像が儚く歪む。今にもほどけて消えてしまいそうだ。


 次の瞬間、涙があふれた。


 止まらなかった。止められなかった。


「やだ……やだ……」


 喘ぐように呟く。掠れた声が、自分でも情けないほど幼く響く。泣くつもりなどなかったのに、一度こぼれた涙はもうどうしようもなかった。頬を伝い、雨垂れのように、次から次へとあふれてくる。


「こんな……っ、こんな都合のいい夢……」


 言い切る前に咳が込み上げた。胸の奥がひりつき、喉が裂けるように痛む。身体を折ろうとしてもうまく力が入らない。ただ咳き込みながら、泣きながら、息だけが浅く乱れていく。


「げほっ……ごほ、っ……」


 視界が涙で滲む。枕元の人影がわずかに近づいた気配がした。けれど夢だから、きっと触れはしない。その距離が逆に苦しかった。


「醒めたくない……」


 ようやく絞り出した声は、ほとんど嗚咽だった。


「お願い……だから……っ、醒めないで……」


 夢だと思った瞬間、張りつめていたものが一気に崩れた。こんな夢に縋る自分がみっともないのに、それでも手放したくなかった。目が覚めたらまたいないのだと思うだけで、耐えられなかった。


「あなたに……っ、出会わなければ……よかった……」


 言った途端、また咳が上がる。胸が痛い。息がうまく吸えない。けれど涙も言葉も止まらなかった。


「あなたに、会って……っ、わたし……わたしの世界が……っ、こんなにも……冷たいんだって……知ってしまった……!」

 言葉は泣き声に崩れ、途中で切れ、何度も咳に妨げられる。それでも吐き出さずにはいられなかった。


「知らなければ、よかったのに……!」

「知らなければ……っ、わたし……こんなに、寂しいって……」


 そこで声がつまる。自分で何を言ったのか、遅れて胸に刺さった。


「……寂しかった」

「ずっと……寂しかったの……!」


 もう隠せなかった。夢だと思った瞬間、ずっと押し込めていたものが、堰を切ったようにあふれてくる。


「こわかった……っ」

「ずっと、こわかった……!」

「でも、誰にも……言えなかった……っ」

「平気なふり、しないと……ごほっ、っ……」


 咳が続いて、喉が裂けそうに痛む。それでも言葉は止まらない。


「ひとりでいるのが……っ、もう、つらい……!」

「いや……もう、いやよ……っ」

「逃げたい……っ」

「ひとりなんて……いや……!」


 言ってはいけないことばかり口から出る。なのに、夢だと思うと止める力がどこにも残っていなかった。

 レオニスには言えなかったからだ。

 何も。

 ありがとうすら、伝えられていない。


「あなたに会わなければ……っ、こんなふうに……来てほしいなんて……思わなかったのに……!」

「待ってしまうのが……いや……っ、置いていかれるの、もう……いやぁ……!」


 嫌だと素直に口にした途端、心のたがが外れた。

 言葉にならないものまで込み上げて、セラフィナはほとんど泣き声のまま叫んだ。


「ああ────」


 声にならない泣き声だけが、喉の奥からこぼれた。


 泣きじゃくりながらそこまで言って、セラフィナは自分の言葉に自分で傷ついた。待っていたのだ。ずっと。誰よりも。いなくなったあとも、もう帰らないと思いながら、それでもどこかで待っていた。


 だからこんな夢を見る。


 レオニスはもういないのに。


 その時、低い声が落ちた。


「……はい」


 それだけだった。


 否定も、慰めも、咎めもない。ただ受け止めるように、静かにそう返された。


 それがたまらなく優しくて、セラフィナはますます泣いた。


「そんなふうに……っ、返さないで……」

「やさしく、しないで……っ」

「夢なのに……っ、そんなの、いや……っ」


 声はもうほとんど嗚咽に沈んでいた。自分でも止め方がわからない。涙でぐしゃぐしゃになったまま、セラフィナはかろうじて枕元の人影を見る。


 レオニスは、ただそこにいる。


 そのことが、いちばん残酷だった


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