第21章 還ったひと②
「下がっていて」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。護衛か、兵か、それとも魚に向かって言ったのかもしれない。
セラフィナはさらに一歩踏み出した。
裂け目の縁で石がみしりと鳴る。吹き上がる瘴気が髪を煽り、喉へ入り、肺を焼いた。堪えきれず咳き込み、口元を押さえるのが間に合わず、セラフィナの胸元に赤が滲んだ。それでも足を前へ運ぶ。あと少し。あと少しで届く。
だが視界が揺れた。
石床が波打つように見え、裂け目の黒がひどく近く感じる。耳鳴りがして、まわりの声が遠ざかる。身体の芯から力が抜けていくのに、それでも前へ出ようとした、その時だった。
「お下がりください」
低い声だった。
聞き間違えるはずのない声に、セラフィナの呼吸が止まった。
夢だと思った。
振り向くより先に、その影は横を抜けた。黒に近い髪。濡れた石のような灰色の瞳。血に汚れた額。肩口にも裂けた跡がある。瘴気に煤け、旅の泥までかぶった姿は、けっして整ってはいなかったはずなのに、セラフィナにはひどく眩しく見えた。
夜明けの光だけが、人の形をして立っているように見えた。
「……っ」
名を呼ぼうとした。けれど声にならない。
レオニス……!
彼はセラフィナを見た。ほんの一瞬だけ。その一瞬に、帰ってきたことも、生きていることも、どれほど無茶をしてここまで来たかも、何もかもが詰まっていた気がした。けれど次の瞬間にはもう視線を裂け目の向こうへ戻している。
「兵を下がらせてください」
短く、はっきりした声だった。
「ですが……!」
「今は俺が行きます」
その言い方に反論は許されなかった。彼は口元を布で押さえ、腕輪のある腕を前へ庇うようにして、濃い瘴気の中へ踏み込んだ。空気が彼を拒むように揺らぐ。だが倒れない。足を止めない。火の中へ入る者のように、ただ一点だけを見て進んでいく。
子どもの前で膝をつき、抱き上げる。細い身体が彼の胸へ縋るようにしがみついた。その瞬間、裂け目の縁がまた大きく軋んだ。石が崩れ、黒いものが噴き上がる。
「レオニス……!」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
彼は振り返らなかった。子どもを片腕で抱えたまま、来た道を戻ってくる。腕輪の光が一瞬強くなり、濃い瘴気の流れをわずかに裂いた。次の足場へ、さらに次の足場へ。崩れかけた石がその背後で割れ、黒いものが巻き上がる。兵たちが手を伸ばし、最後の一歩でようやく彼と子どもを引き上げた。
その瞬間、まわりにいた誰かが歓声にも似た息を漏らした。泣き崩れる声も上がった。だがセラフィナには何もかもが遠かった。ただ、レオニスがそこにいるという事実だけが、異様なほど鮮明だった。
抱えられていた子どもは兵へ渡され、泣きながら母親らしい女へしがみついた。レオニスの呼吸は荒い。肩で息をしている。瘴気をまったく受けていないはずがない。額の傷も開いたのか、乾いていた血の上に新しい赤が滲んでいた。
それでも彼は、真っ先にセラフィナの方へ向き直った。
「もう充分です」
低い声だった。叱責でも懇願でもない。けれど、そのどちらよりも強かった。
「これ以上はなりません」
セラフィナは何か言おうとした。どうしてここにいるのか。生きていたのか。その傷は。どうやって、ここへ。聞きたいことは無数にあった。けれど最初に唇からこぼれたのは、別の言葉だった。
「でも……」
「駄目です」
ぴしゃりと断たれる。
レオニスは一歩近づいた。触れはしない。けれどその距離は、以前よりもずっと近く感じられた。
「あなたはここで死んではならない」
その言葉に、セラフィナは目を見開いた。




