表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

55/66

第21章 還ったひと②

 

「下がっていて」


 誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。護衛か、兵か、それとも魚に向かって言ったのかもしれない。


 セラフィナはさらに一歩踏み出した。


 裂け目の縁で石がみしりと鳴る。吹き上がる瘴気が髪を煽り、喉へ入り、肺を焼いた。堪えきれず咳き込み、口元を押さえるのが間に合わず、セラフィナの胸元に赤が滲んだ。それでも足を前へ運ぶ。あと少し。あと少しで届く。


 だが視界が揺れた。


 石床が波打つように見え、裂け目の黒がひどく近く感じる。耳鳴りがして、まわりの声が遠ざかる。身体の芯から力が抜けていくのに、それでも前へ出ようとした、その時だった。


「お下がりください」


 低い声だった。


 聞き間違えるはずのない声に、セラフィナの呼吸が止まった。


 夢だと思った。


 振り向くより先に、その影は横を抜けた。黒に近い髪。濡れた石のような灰色の瞳。血に汚れた額。肩口にも裂けた跡がある。瘴気に煤け、旅の泥までかぶった姿は、けっして整ってはいなかったはずなのに、セラフィナにはひどく眩しく見えた。


 夜明けの光だけが、人の形をして立っているように見えた。


「……っ」


 名を呼ぼうとした。けれど声にならない。

 レオニス……!

 彼はセラフィナを見た。ほんの一瞬だけ。その一瞬に、帰ってきたことも、生きていることも、どれほど無茶をしてここまで来たかも、何もかもが詰まっていた気がした。けれど次の瞬間にはもう視線を裂け目の向こうへ戻している。


「兵を下がらせてください」


 短く、はっきりした声だった。


「ですが……!」

「今は俺が行きます」


 その言い方に反論は許されなかった。彼は口元を布で押さえ、腕輪のある腕を前へ庇うようにして、濃い瘴気の中へ踏み込んだ。空気が彼を拒むように揺らぐ。だが倒れない。足を止めない。火の中へ入る者のように、ただ一点だけを見て進んでいく。


 子どもの前で膝をつき、抱き上げる。細い身体が彼の胸へ縋るようにしがみついた。その瞬間、裂け目の縁がまた大きく軋んだ。石が崩れ、黒いものが噴き上がる。


「レオニス……!」


 ようやく出た声は、ひどく掠れていた。


 彼は振り返らなかった。子どもを片腕で抱えたまま、来た道を戻ってくる。腕輪の光が一瞬強くなり、濃い瘴気の流れをわずかに裂いた。次の足場へ、さらに次の足場へ。崩れかけた石がその背後で割れ、黒いものが巻き上がる。兵たちが手を伸ばし、最後の一歩でようやく彼と子どもを引き上げた。


 その瞬間、まわりにいた誰かが歓声にも似た息を漏らした。泣き崩れる声も上がった。だがセラフィナには何もかもが遠かった。ただ、レオニスがそこにいるという事実だけが、異様なほど鮮明だった。


 抱えられていた子どもは兵へ渡され、泣きながら母親らしい女へしがみついた。レオニスの呼吸は荒い。肩で息をしている。瘴気をまったく受けていないはずがない。額の傷も開いたのか、乾いていた血の上に新しい赤が滲んでいた。


 それでも彼は、真っ先にセラフィナの方へ向き直った。


「もう充分です」


 低い声だった。叱責でも懇願でもない。けれど、そのどちらよりも強かった。


「これ以上はなりません」


 セラフィナは何か言おうとした。どうしてここにいるのか。生きていたのか。その傷は。どうやって、ここへ。聞きたいことは無数にあった。けれど最初に唇からこぼれたのは、別の言葉だった。


「でも……」


「駄目です」


 ぴしゃりと断たれる。


 レオニスは一歩近づいた。触れはしない。けれどその距離は、以前よりもずっと近く感じられた。


「あなたはここで死んではならない」


 その言葉に、セラフィナは目を見開いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ