第21章 還ったひと①
避難はもう、秩序と呼べるものではなかった。それはそうだ、誰ももうどこに逃げたらいいのかわからないのだから。
不安な気持ちを抱えたまま、セラフィナは自らの存在が重荷にならないよう気丈に振る舞っていた。胸は苦しく、手足は重い。奈落の底が抜けた時に床へ打ちつけられた身体は、どちらへ行くつもりだあちこちが熱を持ち、思うように動かなかった。
顔を上げれば人々は逃げまどい、兵は怒鳴り、泣き声と鐘の音が石壁に反響していた。
本で読んだ戦場とはこんな場所のことをいうのだろうか。旧都は既に絶望の色に染め上げられていた。
まずは皇太子である兄を、安全な場所へ移動していただかねば。そう思ってからセラフィナは自嘲する。
安全な場所なんてもうこの国のどこにもないのに。
空を渦巻く瘴気は地中から溢れて太陽を遮り、薄く広がっている。
ゆるゆるとこの世界は死に向かっているような、そんな予感がする。
ぎゅっと握りしめた手の甲で、魚が泳ぐ。まるで、まだ大丈夫だと、セラフィナに伝えるように。
その時だった。
「大変です!西の回廊が更に崩れました」
「回廊先に渡りきれなかった者が取り残されてます」
誰に告げられているかもわからない報告に、セラフィナは立ち止まらなかった。護衛たちが制止の声を上げても、魚が胸の下で焼けるように暴れても、それを振り切って足を向けた。
回廊の先は、ほとんど裂け目の縁だった。
石床が大きく崩れ、黒い瘴気が下から吹き上がっている。その向こうに、人影が見える。年老いた女が柱にしがみつき、その足元に小さな子どもが二人、震えながらうずくまっている。兵たちは近づけない。瘴気が濃すぎるのだ。裂け目の周囲だけ、空気そのものが腐りかけているようで、近寄った者から咳き込み、膝をついていた。
「姫殿下、危険です!」
「下がってください!」
「向こうへは行けません!」
行けないのではなく、行くしかなかった。
セラフィナは胸元を押さえ、深く息を吸おうとして、すぐに喉を焼く痛みに顔を歪めた。魚が熱い。拒むように、焦れるように、深碧のものが身の内で何度も跳ねた。先程の慰めるような動きではない。
ここではない、と言いたいのだと、もうわかっている。それでも、目の前で取り残された人を置いて下がれるほど、セラフィナは賢くも冷たくもなれなかった。
「道を開けます」
声は掠れていたが、その声に周囲のざわめきが止んだ。
護衛たちが息を呑む。誰かが「だめです」と言った。誰かが兄を呼びに走った気配がする。だが、待ってはいられない。
セラフィナは一歩、裂け目へ近づいた。
その瞬間、黒いものがこちらを見つけたように揺れた。細い糸となって流れが集まり、姫の方へと引かれ始める。手袋を取り手を伸ばす。瘴気を絡めとるように。
胸が焼ける。骨の奥まで火を入れられるようだった。けれど同時に、裂け目の上に漂っていた黒がほんのわずか薄れる。
「今です!」
兵のひとりが叫び、向こう側へ駆けた。子どもの一人を抱き上げる。もう一人を引き寄せる。年老いた女は足がもつれたが、別の兵が肩を貸して戻ってくる。
息が上がった。
視界の端が白くなっていく。喉の奥で咳が暴れ、血の味が上がってくる。
限界を感じて手袋をつけようとした。その時、違和感を覚えて目を凝らす。また濃度を増した瘴気の向こう。裂け目の向こう、崩れた梁の陰に、もう一つ小さな影があった。
子どもだった。
幼い男の子が一人、崩れた石の影へ取り残されている。脚でも挟まれたのか、身を起こせず、こちらを見ているだけだった。泣き声も出ていない。恐怖がもう、声を奪ってしまっているらしい。
「まだ一人……!」
セラフィナが叫んだ声に、戻ってきた兵が振り向き、歯噛みする。だが今、裂け目の上へ出られる者はもういない。セラフィナが引き受けたことで一時的に薄れていた瘴気は、再び渦を巻き始めていた。
「姫殿下、もう下がってください!」
「これ以上は──」
聞こえていた。聞こえていたが、足は止まらなかった。
あそこまであと少し。もう一度だけ流れを引き受ければ、兵が行ける。いや、兵が駄目なら自分が行けばいい。子ども一人くらい抱えて戻れる。そう思った。
魚が、今まででいちばん強く暴れた。
胸の奥を掻きむしるような熱だった。違う、と、やめろ、と、身体そのものを内側から押しとどめるような拒絶。セラフィナは一瞬よろめいた。だが、その先で子どもの小さな手が動いたのが見えてしまった。
助けを求めるように。
その一瞬で、すべてが決まってしまった。




