第20章 裂けた流れ③
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馬はよく走った。領内で最も速い馬だと言った兵の言葉に偽りはなかった。だがいくら馬が良くても、道は勝手に縮まらない。走るたびに脇腹が軋み、左肩は痺れたまま感覚が薄い。鞍の上で意識を繋ぐだけで精一杯だった。
それでも手綱は緩めなかった。
村を抜け、林を抜け、川沿いの道へ出る。途中の関所では名乗るより先に兵が顔色を変えた。誰もが何か異変を感じ取っていた。この地も瘴気が溢れてきている。それに呼応するように遠くの空の色が翳っていくのだ。旧都の方角だけ、薄く黒が混じって見える。
レオニスはそれを見るたび、喉の奥が冷えた。
遅れれば、姫が自分を削る。
いや、もう削っているかもしれない。これだけ世界が壊れていれば、あの人は必ず前へ出る。その効果が薄いとわかっていても、ひとつでも減らせるならと、自分の身を使う。そういう人だ。
駆けながら、ふと鐘楼の崩落の瞬間が脳裏をよぎる。届く距離にあった白い手。揺れた青い瞳。落ちることを選んだことに迷いはない。
今は、戻らなければならない。その時となにも心は変わっていなかった。
あの人に生きていてほしい。
頬を打つ風は冷たいのに、胸の奥だけが熱を持っていた。
「セラフィナ様」
名を呼ぶと、不思議なほど手綱を握る指に力が戻った。
手首の腕輪がじり、と熱を持った。急げと責め立てるような熱だった。
「……間に合わせる」
返事はない。あるはずもない。それでもレオニスは低く呟き、手綱を握る指にもう一度力を込めた。
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立たなければならなかった。
セラフィナはどうにか息を整え、石畳へ手をついて立ち上がった。膝が笑う。視界の端がまだ白い。けれど遠くでまた悲鳴が上がる。奈落の方角からだと、誰かが叫んでいた。
白耀石は、もう駄目なのだろう。
ふとそんな考えが、静かに胸へ落ちた。
あの石がまだ国を守る奇跡であるなら、ここまで底の流れは荒れない。もう壊れている。もはや誰かがすがっても、何も戻らないところまで。
それでもなお、人は石にすがるのだろうか。欠けた奇跡へ。砕けた象徴へ。自分もまた、そのそばで生きてきた。石とともに閉じ込められ、石とともに在るものとされてきた。
けれど今、魚は石の方へは引かなかった。
もっと別のどこかへ向かうように、焦れるように、身を捩っている。
レオニスがいたなら、たぶん止めただろうと思った。そんな顔で立ち尽くしていては駄目だと、低い声で言っただろう。あるいは、苦しいなら苦しいと言えと。無茶をするなと。けれど、ではどうすればいいのか。その答えを、セラフィナはもう自分ひとりでは見つけられなかった。
それでも進むしかない。
足りないなら、足りないなりに削るしかない。ひとつでも、ひと息でも、ひとところでも。この身で減らせるものがあるなら、止まるわけにはいかなかった。
血のついた布を握りしめ、セラフィナはもう一度歩き出した。
世界は壊れ始めている。
自分ひとりでは足りないのだとしても、立ち尽くしているわけにはいかなかった。
その事実だけが鉛のように胸へ沈んでいた。けれど魚の熱は、それでもなお終わりを許さなかった。まだ違う、と。まだここではない、と。




