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第20章 裂けた流れ③

 ***


 馬はよく走った。領内で最も速い馬だと言った兵の言葉に偽りはなかった。だがいくら馬が良くても、道は勝手に縮まらない。走るたびに脇腹が軋み、左肩は痺れたまま感覚が薄い。鞍の上で意識を繋ぐだけで精一杯だった。


 それでも手綱は緩めなかった。


 村を抜け、林を抜け、川沿いの道へ出る。途中の関所では名乗るより先に兵が顔色を変えた。誰もが何か異変を感じ取っていた。この地も瘴気が溢れてきている。それに呼応するように遠くの空の色が翳っていくのだ。旧都の方角だけ、薄く黒が混じって見える。


 レオニスはそれを見るたび、喉の奥が冷えた。


 遅れれば、姫が自分を削る。


 いや、もう削っているかもしれない。これだけ世界が壊れていれば、あの人は必ず前へ出る。その効果が薄いとわかっていても、ひとつでも減らせるならと、自分の身を使う。そういう人だ。


 駆けながら、ふと鐘楼の崩落の瞬間が脳裏をよぎる。届く距離にあった白い手。揺れた青い瞳。落ちることを選んだことに迷いはない。

 今は、戻らなければならない。その時となにも心は変わっていなかった。

 あの人に生きていてほしい。

 頬を打つ風は冷たいのに、胸の奥だけが熱を持っていた。


「セラフィナ様」


 名を呼ぶと、不思議なほど手綱を握る指に力が戻った。

 手首の腕輪がじり、と熱を持った。急げと責め立てるような熱だった。


「……間に合わせる」


 返事はない。あるはずもない。それでもレオニスは低く呟き、手綱を握る指にもう一度力を込めた。


 ***


 立たなければならなかった。


 セラフィナはどうにか息を整え、石畳へ手をついて立ち上がった。膝が笑う。視界の端がまだ白い。けれど遠くでまた悲鳴が上がる。奈落の方角からだと、誰かが叫んでいた。


 白耀石は、もう駄目なのだろう。


 ふとそんな考えが、静かに胸へ落ちた。

 あの石がまだ国を守る奇跡であるなら、ここまで底の流れは荒れない。もう壊れている。もはや誰かがすがっても、何も戻らないところまで。


 それでもなお、人は石にすがるのだろうか。欠けた奇跡へ。砕けた象徴へ。自分もまた、そのそばで生きてきた。石とともに閉じ込められ、石とともに在るものとされてきた。


 けれど今、魚は石の方へは引かなかった。


 もっと別のどこかへ向かうように、焦れるように、身を捩っている。


 レオニスがいたなら、たぶん止めただろうと思った。そんな顔で立ち尽くしていては駄目だと、低い声で言っただろう。あるいは、苦しいなら苦しいと言えと。無茶をするなと。けれど、ではどうすればいいのか。その答えを、セラフィナはもう自分ひとりでは見つけられなかった。


 それでも進むしかない。


 足りないなら、足りないなりに削るしかない。ひとつでも、ひと息でも、ひとところでも。この身で減らせるものがあるなら、止まるわけにはいかなかった。


 血のついた布を握りしめ、セラフィナはもう一度歩き出した。


 世界は壊れ始めている。


 自分ひとりでは足りないのだとしても、立ち尽くしているわけにはいかなかった。


 その事実だけが鉛のように胸へ沈んでいた。けれど魚の熱は、それでもなお終わりを許さなかった。まだ違う、と。まだここではない、と。


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