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第20章 裂けた流れ②

 ***


 海から上がった時、まともに息を吸っただけで肋が軋んだ。


 夜だったのか、明け方だったのかもはっきりしない。濡れた衣が肌に貼りつき、体温を一気に奪っていく。左肩はほとんど上がらない。額から流れた血は乾いて頬に張りつき、歩くたび脇腹の奥が鈍く痛んだ。それでもレオニスは膝をつかなかった。ここで膝をついたら、二度と立てない気がしたからだ。


 旧都へ戻らなければならない。


 姫はまだ、自分が死んではならないことを知らない。いや、知ったところで、あの人は自分を使い潰そうとするだろう。そういう人だと、もう知っている。


 だから止まれなかった。


 浜から館までは、普段なら遠くない。だが今はひどく長かった。途中で何度も視界が暗くなり、木に手をついて息を整えた。咳と一緒に上がってきた血を吐き捨てる。腕輪の石はまだ熱を持っていた。守られているというより、急げと責められているようだった。


 館へ辿り着いた時、見張りの兵が亡霊を見たような顔をした。


「若様……」

「馬を出せ」


 問いも驚きも切り捨てるように言うと、兵は慌てて走った。


「いちばん速いのを」

「ですが、そのお怪我では──」

「今すぐだ」


 それ以上の言葉は要らなかった。命じる声がまだ主人のそれであるうちは、周囲は従うしかない。

 馬が引かれてくる間に、家人たちが慌ただしく駆け寄ってきた。兄はレオニスの怪我を見るなり、すぐにあて布を命じる。体温を奪う濡れた衣は剥ぎ取られ、乾いたものへ替えられた。それだけでも、いくらか動きやすくなる。

 レオニスは壁に背をつくことすらしなかった。座れば終わる。休めば遅れる。遅れれば、姫が自分を削る。


「ここの被害は?」

 兄に手短に問う。緑豊かなこの地にも瘴気が深い影を落としているのは確実だった。


「ここは任せろ、お前は行くのだろう」

「ああ」

「どこへ」

「……姫殿下のもとへ」


 言葉はそれ以上いらなかった。

 手綱を受け取る時、慌てるように執事が言った。


「せめて医師を」

「旧都へ着いてからでいい」


 その言い方が、自分でもひどく冷たいと思った。だが仕方がない。今は身体より先に、間に合うかどうかだけが問題だった。


 鞍へまたがるだけで脇腹に痛みが走る。視界が一瞬白んだ。それでも馬腹を蹴ると、馬は躊躇なく夜明け前の道へ飛び出した。


 ***


 外の光は濁っていた。曇っているわけではないのに、空に薄い黒の膜がかかったように日差しが鈍い。人々は逃げ惑い、ある者は祈り、ある者は泣き、ある者はその場に座り込んでいた。石畳の割れ目から煙のような瘴気が立ちのぼり、それが風もないのに地を這っていく。


 魚が熱い。


 胸元で焼けるように疼くたび、行くべき場所がわかった。南へ。今度は井戸の方。そこを浄めれば終わるわけではない。だが今、そこにいる者たちを少しでも助けられるなら行くしかなかった。


 護衛たちを従え、セラフィナは石畳の道を急いだ。途中で咳が込み上げた。喉が焼ける。押さえた布の奥で赤が滲む。それでも立ち止まらない。


 井戸の周囲にはすでに人が集まり、誰も近づけずにいた。井戸枠の内側から墨を流したような黒がゆっくりと溢れ、地面へ這い出している。倒れた子どもを抱いた母親が、泣きながら何かを叫んでいた。その腕の中の子は動いていないようにも見える。


「下がって」


 声が掠れた。それでも人々は顔を上げ、姫のために道を開ける。セラフィナは手袋をした指先を胸元へ押しあて、魚の熱へ意識を向けた。


 黒いものが細くほどけ、糸のようにこちらへ引かれてくる。胸が焼け、背中が冷え、骨の芯が軋む。息が浅くなる。視界の端が白くかすむ。それでも井戸の口から溢れていた黒は、一時、わずかに薄れた。


 人々がどよめく。


 だが次の瞬間、別の場所で悲鳴が上がった。


「向こうだ!城壁の下からまた……!」

「西の通りも裂けたぞ!」


 セラフィナは顔を上げた。井戸を抑えたはずなのに、今度は別の場所が裂ける。ひとつ塞いでも、もうひとつ。そこを抑えればまた別の場所。まるで地の底を這っていた巨大な流れが、白耀石のひびとともに四方へ暴れ出したかのようだった。


 追いつかない。


 この身で引き受ければ、確かに少しは薄れる。けれど減った分だけ別の場所で噴く。抑えた先からまた裂ける。この身ひとつで追える速さではなかった。


 遅すぎたのかもしれない。兄の言葉が胸をよぎる。


 もっと早く。もっと前に。白耀石が傷む前に。何もかもを迷わず、自分をもっと深く瘴気へ差し出していれば。都ひとつで済んでいた頃に、もっと徹底して引き受けていれば。


 そこまで考えて、胸の奥が冷えた。

 では、もう遅いのか。

 もう、わたしが命をかけても足りないところまで来てしまったのか。


 咳が込み上げた。今度は押さえるのも間に合わず、唇に血の味が広がる。護衛のひとりが青ざめて一歩踏み出す。


「姫殿下、お下がりください!」

「まだ……」

「このままでは──」


 何と言われたのか、最後まで聞こえなかった。世界が少し遠ざかる。耳鳴りがして、鐘の音も悲鳴も水の底から聞くように鈍くなった。足元だけが妙に鮮明だった。ひび割れた石畳の隙間から、まだ黒いものが細く滲んでいる。


 その黒を見つめたまま、セラフィナはひどく幼い気持ちになった。


 どうしたらいいのかわからない。


 今までだって、わからないことは多かった。けれど、行けと言われれば行けた。耐えろと言われれば耐えられた。自分が苦しめば済むのなら、そこには少なくとも迷いがなかった。


 今は違う。


 苦しめば済むのかどうか、それすらもうわからなかった。


「……レオニス」


 名がこぼれた瞬間、自分で驚いた。


 ここにはいない。もう戻らないかもしれない人の名だった。こんな時に呼ぶべきではない。そんなことはわかっている。けれど唇は勝手に動いた。

 誰かの名を呼んで助けを求めるなんて、生まれてから一度もなかった。だからかもしれない。


「ねぇ、どうしたらいいの」


 かすれた声は、泣くこともできない子どものように弱かった。


「どうしたら、この世界を救えるのか……わたしには、わからない」


 答えはない。あるはずもない。今になって初めて、その人がいないことの大きさがわかった。


 その瞬間、魚が強く跳ねた。


「……っ」


 いつもの痛みとは違った。胸元から腹へ、灼けるような熱が走る。衣の下で深碧のものが激しく身を翻し、瘴気へ飛び込もうとするのではなく、逆にセラフィナの内側から押し返してくる。


 違う、と。


 ここではない、と。


 全部をここで燃やし尽くすな、とでも言うように。


 セラフィナは思わず片膝をついた。護衛たちの声が遠くなる。胸を押さえる手の下で、魚はなお激しく動いていた。黒ずんで見えていた輪郭の奥に、ほんのわずか、銀を滲ませた深碧の光が見えた気がした。


 これはただ暴れているのではない、とセラフィナは思った。


 拒まれているのだ。

 この場で、自分の身を使い潰そうとすることを。

 終わりをここに置こうとすることを。

 ずっと自分を苦しめてきたものが、今は自分を止めようとしている。その事実が、ひどく不思議だった。


 けれど、ではどこへ行けばいいのか。何をすればいいのか。そこまではまだわからない。


 わからないまま、それでも魚の熱だけが告げていた。終わりではない。まだ違う。まだここではない、と。


 信じていいのかどうかもわからなかった。ずっと恐れてきたものの声を、今さら頼りにしようとしている。それでも他に頼れるものが、今はもう何も残っていなかった。


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