第20章 裂けた流れ①
白耀石が損なわれてから、旧都の空気は目に見えて変わった。
瘴気はもともと見えていた。地を這う黒い流れとして、夜には石畳の隙間や井戸の底にまで滲んでいた。けれど、それでもまだ境目があった。人のいる場所と、そうでない場所。白耀石の光が辛うじて押し返している領分と、もう侵されている領分。
今は、その境目がない。
城壁の下から、崩れた石段の隙間から、井戸の底から、まるで地そのものが傷んだ息を吐くように、黒いものが絶えず噴き上がっていた。広場で浄めたばかりの場所にも、しばらくするとまた別の濁りが這い寄ってくる。鐘が鳴っていたが、それが避難を告げる音なのか、祈りのための音なのか、もう誰にもわからないのではないかとセラフィナは思った。人の悲鳴も、怒鳴り声も、馬の嘶きも、すべてが濁った空へ吸い込まれていく。
報せはひっきりなしに届いていた。
「東の外門で噴出が」
「南の居住区で井戸水が濁り、倒れる者が」
「北方から急使です。川沿いの村で家畜が次々に死に、人も熱と咳で──」
「西では地割れの奥から黒煙のようなものが」
報告が重なるたび、部屋の空気が少しずつ重くなる。ユリウスは顔色を変えずに命を下し続けていた。広間封鎖、負傷者の移送、井戸の使用禁止、兵の再配置、街区ごとの避難。だがその横顔に、まだ押し返せると信じている者の強さはもうなかった。
セラフィナは立ち上がった。
「どこへ行くつもりだ」
「広場へ」
「ならぬ」
ユリウスの声は短く、迷いがない。兄として止めているのか、王家の者として止めているのか、その両方なのだろうとセラフィナは思った。
「今のおまえを外へ出すわけにはいかない」
「出なければ、もっと増えます」
「だからといって、おまえひとりで何ができる」
答えられなかった。何ができるのか、どこまでできるのか、自分でももうわからない。ただ魚だけが、衣の下で絶えず熱を帯びていた。胸元から脇腹へ、深いところを灼くように疼いている。行け、と。濁りの噴く場所へ行け、と急き立てるように。
「兄上」
セラフィナは兄を見た。
「わたしが行きます」
「ならない」
「もう白耀石では支えきれておりません」
「わかっている」
唸りにも近い低いその声に、怒りとも絶望ともつかない響きが混じった。わかっている。わかっていて、それでも出したくないのだ。だがその時、控えていた教会側の男が一歩進み出た。
「でしたらなおさら、姫殿下のお力をお使いすべきです」
ユリウスの目が鋭く細まる。
「今この国に必要なのは奇跡の御力です。姫殿下が白耀石に代わってお力を振るわれれば、少なくとも旧都だけでも持ちこたえられるかもしれません」
「かもしれません、だと」
「最初からそうしていれば、ここまでには──」
「黙れ」
空気が凍った。ユリウスは一歩前に出て、その男を真正面から見据えた。
「今さら姫一人を投げ込めば済む段階なら、誰もここまで追い詰められていない」
男は押し黙ったが、セラフィナの胸にはその言葉の方が重く落ちた。
今さら姫一人を投げ込めば済む段階なら……
兄はそんなつもりで言ったのではないだろう。それでも刺さった。自分を責めるのに、他人の言葉はいつもこんなに使いやすい。
もっと早く。白耀石が壊れる前に。底の流れがここまで裂ける前に。何もかもを迷わず投げ出して、自分ひとりを瘴気の中へもっと深く差し出していれば。そうしていたら違ったのではないかと、どこかでずっと思っていたからだ。
では、もう遅いのか。
もう、自分が壊れても足りないところまで来てしまったのか。
胸の奥が冷えた。それでも唇は動いた。
「それでも、行きます」
「セラフィナ」
「少しでも減らせるなら。ひとつでも噴出を抑えられるなら、ここにいる意味はそれしかありません」
ユリウスが何か言おうとした、その瞬間だった。地の底で巨大なものが身を捩ったような振動が走り、床がわずかに揺れた。続いて、廊下の向こうで悲鳴が上がる。
もう待ってはいられなかった。
歩き出そうとしたセラフィナの腕へ、ユリウスの手が伸びかける。だが触れられないことを、兄も忘れたわけではない。その指先はぎりぎりで止まり、空を掴むように震えてから引いた。
「護衛をつける」
「構いません」
「勝手な真似はするな」
「……はい」
たぶん、従えない。
そう思いながら、セラフィナは広間を出た。




