第19章 沈んだ座③
あの人は今も、自分を削っている。そう確信した。確認などしていない。それでも確信だけがあった。
死んだ身体では駄目なのだ。姫を犠牲にしても何一つ成就しない。魚だけをどうこうしても駄目。姫本人が生きたまま、魚を宿したまま、この座へ至らねばならない。
その時、旧都で見たセラフィナの顔が脳裏に浮かんだ。
瘴気に触れたあとの、ひどく青ざめた横顔。
咳のあと、ほんのわずかに肩で息をしていたこと。
それでもこちらが見ていると気づけば、何事もなかったように姿勢を正したこと。
あの人は、苦しいことを隠す。
止められれば、なおさら自分を削る。
自分ひとりで終わらせられるなら、たぶん迷わずそうする。
だが、それでは駄目だ。
そこで初めて、レオニスの中で二つのものが重なった。
あの人に生きていてほしい、という願い。
そして、あの人が生きていなければこの瘴気が鎮まらないという真実。
都合がいい、と思った。だが都合がよかろうと、本当のことは本当だ。
どちらかがどちらかを塗り替えるのではない。最初から同じ方角を向いていたのだと、ようやく理解した。
レオニスはゆっくり息を吐いた。肋が痛む。喉に血の味が戻る。それでも思考だけは澄んでいった。
セラフィナは今も、旧都で自分を削っているはずだ。
あの人はそういう人だ。自分の身体がどれほど壊れても、止まる理由にしない。むしろ自分ひとりで終わらせられるなら、それを選ぶ。
だがそれでは駄目だ。
生きていなければならない。
そして連れて行かなければならない。
誰のためでもなく、まずあの人のために。そして結果として国のためにも。
小部屋の隅に、さらに小さな石板が伏せられていた。持ち上げると、裏に短い刻みがある。
守る者、導く者、座へ至る者にこれを授く。
石は剣にあらず、盾にあらず。
ただ道を失わせぬため。
ローゼンフェルトの家宝の役目だった。
守る。
導く。
座へ至る騎士のための石。
古い家が辺境の貧しい海辺に残り続けた理由が、皮肉なほどはっきりする。この家はただ土地を守るためだけでなく、いざという時、姫を座へ導く者を出すためにあったのだ。
だが、その役目が、この神殿が沈んだ後なぜ伝えられてこなかったのか、それはレオニスにもわからない。だが今はそんなことはどうでもよかった。すべてを知る必要はない。足りるだけ知れば十分だ。
レオニスは文書を元に戻し、石箱の蓋を閉じた。
壁画の姫の胸に泳ぐ魚を、レオニスはしばらく見ていた。姫を守り共にあるように描かれているそれが、ずっと呪いと呼ばれていた。どうしてセラフィナだけそう呼ばれるようになったのだろう。最初に怯えた者は、何を見たのだろう。それを呪いと名付けた瞬間、何かが取り返しのつかない形で歪んだのだと、今はわかる。
腹の底で何かが鈍く燃えた。怒りに似ていたが、もっと静かで、もっと重かった。石板をそっと伏せる。今すぐ戻らなければならない。あの人はまだ、自分を削っている。
帰る。
今すぐに。
ここが海の底の神殿なら、泳いで地上に上がれるかもしれない。痛む脇腹と肩で、この荒れた海を泳ぎ切れるかはわからない。けれどなんとか自領へ戻り、馬を得る。領内で最も速い馬なら、連日の強行にも耐えるものがいる。休みなく旧都へ向かえば間に合うかもしれない。
いや、違う。──間に合わせる。
そう決めて身を翻した時、地の底で何かが低く唸った。
ごう、と遠雷のような音ではなかった。もっと深く、もっと重い、石の下を巨大な流れが無理に押し広げるような響きだった。足元がわずかに揺れる。
同時に、腕輪の石が灼けつくような熱を持つ。
レオニスは咄嗟に手首を押さえた。石は警告するように脈を打っていた。先ほどまでの導きの光ではない。切迫した危険の熱だ。
白耀石だ、と直感した。
あるいは旧都側の底流が、さらに悪化したのかもしれない。
どちらにせよ、時間はない。
間に合わなければ、あの人は自分の命を終わりの手段にしようとする。
祭室へ戻る通路の石が、今度は迷いなく順に灯った。出口を示している。
レオニスは唇を引き結ぶ。
「待っていてください」
誰に聞かせるでもなく、低く呟いた。
返事はない。あるはずもない。それでも、言わずにはいられなかった。
あの人へ向けて言葉を口にした途端、胸の奥にあった痛みとは別の熱が確かな形を持った。
あの人をこの地へ連れてくる。
折れた肋の痛みを押し殺し、レオニスは灯る石の先へ足を踏み出した。海の底の神殿を抜け、地上へ戻るために。旧都へ、白い塔の姫のもとへ戻るために。




