表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

49/66

第19章 沈んだ座③

 あの人は今も、自分を削っている。そう確信した。確認などしていない。それでも確信だけがあった。

 死んだ身体では駄目なのだ。姫を犠牲にしても何一つ成就しない。魚だけをどうこうしても駄目。姫本人が生きたまま、魚を宿したまま、この座へ至らねばならない。


 その時、旧都で見たセラフィナの顔が脳裏に浮かんだ。

 瘴気に触れたあとの、ひどく青ざめた横顔。

 咳のあと、ほんのわずかに肩で息をしていたこと。

 それでもこちらが見ていると気づけば、何事もなかったように姿勢を正したこと。


 あの人は、苦しいことを隠す。

 止められれば、なおさら自分を削る。

 自分ひとりで終わらせられるなら、たぶん迷わずそうする。


 だが、それでは駄目だ。


 そこで初めて、レオニスの中で二つのものが重なった。


 あの人に生きていてほしい、という願い。

 そして、あの人が生きていなければこの瘴気が鎮まらないという真実。


 都合がいい、と思った。だが都合がよかろうと、本当のことは本当だ。

 どちらかがどちらかを塗り替えるのではない。最初から同じ方角を向いていたのだと、ようやく理解した。


 レオニスはゆっくり息を吐いた。肋が痛む。喉に血の味が戻る。それでも思考だけは澄んでいった。


 セラフィナは今も、旧都で自分を削っているはずだ。


 あの人はそういう人だ。自分の身体がどれほど壊れても、止まる理由にしない。むしろ自分ひとりで終わらせられるなら、それを選ぶ。

 だがそれでは駄目だ。


 生きていなければならない。

 そして連れて行かなければならない。

 誰のためでもなく、まずあの人のために。そして結果として国のためにも。


 小部屋の隅に、さらに小さな石板が伏せられていた。持ち上げると、裏に短い刻みがある。


 守る者、導く者、座へ至る者にこれを授く。

 石は剣にあらず、盾にあらず。

 ただ道を失わせぬため。


 ローゼンフェルトの家宝の役目だった。


 守る。

 導く。

 座へ至る騎士のための石。


 古い家が辺境の貧しい海辺に残り続けた理由が、皮肉なほどはっきりする。この家はただ土地を守るためだけでなく、いざという時、姫を座へ導く者を出すためにあったのだ。


 だが、その役目が、この神殿が沈んだ後なぜ伝えられてこなかったのか、それはレオニスにもわからない。だが今はそんなことはどうでもよかった。すべてを知る必要はない。足りるだけ知れば十分だ。


 レオニスは文書を元に戻し、石箱の蓋を閉じた。


 壁画の姫の胸に泳ぐ魚を、レオニスはしばらく見ていた。姫を守り共にあるように描かれているそれが、ずっと呪いと呼ばれていた。どうしてセラフィナだけそう呼ばれるようになったのだろう。最初に怯えた者は、何を見たのだろう。それを呪いと名付けた瞬間、何かが取り返しのつかない形で歪んだのだと、今はわかる。


 腹の底で何かが鈍く燃えた。怒りに似ていたが、もっと静かで、もっと重かった。石板をそっと伏せる。今すぐ戻らなければならない。あの人はまだ、自分を削っている。


 帰る。

 今すぐに。


 ここが海の底の神殿なら、泳いで地上に上がれるかもしれない。痛む脇腹と肩で、この荒れた海を泳ぎ切れるかはわからない。けれどなんとか自領へ戻り、馬を得る。領内で最も速い馬なら、連日の強行にも耐えるものがいる。休みなく旧都へ向かえば間に合うかもしれない。


 いや、違う。──間に合わせる。


 そう決めて身を翻した時、地の底で何かが低く唸った。


 ごう、と遠雷のような音ではなかった。もっと深く、もっと重い、石の下を巨大な流れが無理に押し広げるような響きだった。足元がわずかに揺れる。


 同時に、腕輪の石が灼けつくような熱を持つ。


 レオニスは咄嗟に手首を押さえた。石は警告するように脈を打っていた。先ほどまでの導きの光ではない。切迫した危険の熱だ。


 白耀石だ、と直感した。


 あるいは旧都側の底流が、さらに悪化したのかもしれない。

 どちらにせよ、時間はない。


 間に合わなければ、あの人は自分の命を終わりの手段にしようとする。


 祭室へ戻る通路の石が、今度は迷いなく順に灯った。出口を示している。


 レオニスは唇を引き結ぶ。


「待っていてください」


 誰に聞かせるでもなく、低く呟いた。


 返事はない。あるはずもない。それでも、言わずにはいられなかった。

 あの人へ向けて言葉を口にした途端、胸の奥にあった痛みとは別の熱が確かな形を持った。


 あの人をこの地へ連れてくる。


 折れた肋の痛みを押し殺し、レオニスは灯る石の先へ足を踏み出した。海の底の神殿を抜け、地上へ戻るために。旧都へ、白い塔の姫のもとへ戻るために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ