第19章 沈んだ座②
壁の灯りが途切れた先で、広い空間が現れた。半ば崩れた扉枠を抜けると、そこは大きな祭室のようだった。天井は高く、ところどころに亀裂が走っている。片側は完全に水に沈み、黒い水面が静かに揺れていた。もう片側は辛うじて乾いており、床一面に白く塩が吹いている。
正面の壁に、絵が残っていた。
レオニスは息を呑んだ。
胸の奥が、一瞬だけ強く収縮した。理由を考えるより先に、身体が反応していた。
色はほとんど失われている。だが輪郭はまだ生きていた。長い髪の姫が描かれている。胸元には魚がいる。布の模様ではない。身体へ寄り添うように、一匹の魚が胸から腹へ沿って泳いでいた。
穢れとしてではなかった。
光を抱いたものとして描かれている。
姫の背後には大きな白い石。足元には水をたたえた円形の座。座の前に跪く騎士がいる。剣を置き、頭を垂れ、その背に守るべきものとしてではなく、迎えるべきものとして姫を仰いでいた。
レオニスは壁画へ近づいた。
魚を宿した姫。
白い石。
水底の座。
従う騎士。
偶然にしては重なりすぎている。胸の内でばらばらだったものが、いやなほど一つの線へ繋がり始めた。
腕輪の石が、低く熱を持った。まるで、同意をするように。
脇の壁には刻文が走っていた。海に長く沈んでいたためか一部は削れ、一部は読めない。それでも、かろうじて残った文字列を拾っていく。
──白き礎は流れを鎮むる要。
──魚は身に宿りて、濁りを集む。
──座は還すために在り、迎えるために在り。
短い。だが十分だった。
白耀石はただ清めをもたらす奇跡の石ではない。流れを鎮める要石。
魚は呪いではなく、濁りを集めるもの。
そして座──この神殿の中枢は、何かを迎え、何かを還すための場所。
レオニスは顔を上げた。祭室の奥に、さらに細い通路が続いている。腕輪の石はそこへ向かって強く熱を帯びていた。
進むしかない。
痛む肋を庇いながら歩き、崩れた石段を降りる。途中、足を滑らせかけて壁へ手をつき、左肩にまで痛みが走った。息が荒くなる。脂汗が滲み視界が揺れる。だが止まれない。
ぽと、ぽと、と水音は途切れず先を示した。
次に辿り着いたのは、書庫めいた小部屋だった。
完全な書庫ではない。棚は朽ち、木はほとんど崩れている。だが石の箱や、封をされた陶筒がいくつも残っていた。乾いた区画だからこそ、わずかに持ち堪えたのだろう。
腕輪の灯りに照らされ、石箱の蓋に刻まれた紋が浮かぶ。
見覚えがあった。
やはりローゼンフェルト家の古い紋だ。今の紋章よりも簡素だが、たしかに同じ意匠を含んでいる。波と剣と、小さな円。
レオニスの喉がわずかに動いた。
家の石は、ただの護りではなかった。
箱の一つを開くと、中に油紙めいたもので包まれた古文書があった。完全ではない。端は朽ち、ところどころ文字が滲んでいる。だが読める部分を追う。
最初の記録は、奉納の控えだった。
魚を宿す姫を迎え、座へ至るための供物。
白き礎を流れの上に据えるための儀。
その補佐を務める家として、海辺の守り手の名が記されている。ローゼンフェルトの祖名に近い綴りがそこにあった。
次の文書はもっと新しい。古いが、先ほどのものよりは時代が下る。
前の神子姫が死んだ、という記述があった。
そこでレオニスの指が止まる。
何度その前後を見ても死因は詳しく書かれていない。だが「還しの儀は成らず」「座は満ちず」とある。続けて、「姫亡きのち、濁りはなお溜まり、国土の底流に歪みを生ず」とあった。
さらに別の記録へ目を移す。
──ゆえにやむなく、白き礎を流れの要へ置く。
──仮に鎮むるのみ。
──これは終わりにあらず。
──都を移すべし。
王都が旧都から移された理由。
伝承では瘴気の広がりを避けるためとされていたが、その実際はもっと切迫していた。正規の還し方が途絶えたため、本来なら座へ還されるはずのものを、白い石で無理やり押さえつけたのだ。瘴気を封じるために。しかしその白耀石は、あくまで仮の封じでしかない。だから石を城から移動させた途端に瘴気が地に溢れたのか。
脳裏に、瘴気に沈む故郷が浮かぶ。見ていないはずの光景が、胸騒ぎとして生々しく迫る。流されて辿り着いた、その流れは濃い瘴気だった。神殿からまた王国中、もしくは世界中の地をこの濃度で流れているものが地上に溢れだしている。
いやな予感がした。
焦りを押さえ、最後の文書を開く。
最も保存状態のよいそれは、奉納記録ではなく、戒めのようだった。短い文が繰り返し刻まれている。
──宿す姫は生きて座へ至るべし。
──死せる身にては満たされず。
──器砕ければ還りは成らず。
──魚のみを離しても成らず。
──姫みずから、生きて、座を越ゆべし。
レオニスはその一行を見つめたまま動けなくなった。
『生きて』
その文字だけが、他より深く胸へ食い込んだ。




