第19章 沈んだ座①
青い海の底のような瞳が揺らいだ。
伸ばされた手、破けた手袋からのぞく、白……
大きな揺れに縁にしがみついていた手が滑った。
落ちた、と認識した時にはもう遅かった。
奈落の底へ叩きつけられるはずだった身体は、途中で別の流れに呑まれていた。水ではなかった。もっと重く、濁り、粘りを持った何かだった。全身にまとわりついて引きずるそれは、触れたところから熱を奪うくせに、肺の奥へ入り込むたび焼けるように痛んだ。
息ができない。
そう思った次の瞬間、脇腹に激痛が走った。岩へぶつかったのだと遅れてわかる。折れたのか、ひびなのか、確かめるまでもなく左の肋が軋んだ。続けて肩がどこかへ擦れ、額も硬いものに打ちつけた。視界に火花が散る。
流されながら、右手首だけが熱かった。
腕輪。
父から渡された時には、古びた家宝の一つとしか思わなかった石が、今は皮膚を焼くほどの熱を帯びていた。熱いのに、不思議とその周囲だけは流れの圧がわずかに鈍る。胸元を押し潰してくる粘った暗流が、石のある手首のまわりでかすかに裂け、身体へまとわりつく勢いを失っていた。
これがなければ、もう死んでいた。
重い暗流の中で身体を丸めかけ、レオニスは歯を食いしばった。肋が痛む。左肩は持ち上がらない。息をするたび肺の奥まで血の味が滲んだ。だが意識だけはまだ途切れない。
途切れてはならなかった。
闇の中で一瞬、白い指先が見えた気がした。
手を伸ばさなかったのではない。伸ばせなかったのでもない。
あの時、届く距離にあった。
掴めば、引き寄せられたかもしれない。
だが、掴んだ瞬間に奪うのは自分だとわかっていた。
あの人は軽い。
痩せて、細くて、折れそうで、それでも不思議なほど強情だった。
咳き込んでいるくせに人前では背を伸ばし、苦しいくせに平気な顔をして、誰にも縋らない。
海の底のような瞳の奥底に、悲しみを隠している。その瞳を見た時、自然と心が決まった。
だから、掴まなかった。
後悔はなかった。痛みの中で、それだけははっきりしていた。
旧都へ発つ前夜、皇太子のユリウスに呼び出された。
人払いされた執務室は灯りを落としてなお明るく、机上にはいくつもの書簡と封蝋の割られた報告書が積まれていた。
その中に見覚えのある紋のついた綴りが混じっているのを認めた瞬間、レオニスはわずかに息を詰める。
白耀の塔について調べるため、自分が近頃あちこちの書庫や記録庫を探っていたことを、もう知られているのだと悟った。
ユリウスは書面から目を上げもせず、低い声で言った。
「勝手が過ぎるな、レオニス」
叱責はそれだけだった。だが静かなその一言で、自分の動きが最初から筒抜けだったことを思い知らされるには十分だった。
何をどこまで読んだのか。誰に頼み、どの記録に触れたのか。
あえて問いただしもしないのは、問いただすまでもなく把握しているからだ。
やがてユリウスは一枚の書類を閉じ、ようやく彼を見た。
「そこまで首を突っ込んだのなら、半端な嘘ではもう止まるまい」
そしてレオニスが一番知りたかった事実を、低い声で告げられた。
姫に触れて死ぬのは相手ではなく、姫の方だと。あの噂は逆なのだと。
王家が伏せてきた真実を、明かす代わりに絶対に姫を守れと命じられた。
ただ、知らされた途端に胸の内で何かが定まった。
どうしてこんな重荷を、あの小さな姫だけが背負わなければならないのか。ずっとそう疑問に思っていた。呪い姫だなんて言われていても、恥じらうように笑う姿は普通の美しい姫君にしか見えない。
だからユリウスから真実を聞いて、逆に腑に落ちた。
あの可憐な姫を守るための嘘だったのだ。
あの人に生きていてほしかった。
それだけだった。
だから鐘楼が崩れたあの一瞬、セラフィナの手が届く距離にあっても、レオニスは自分から落ちる方を選んだ。掴めば助かる可能性はあったかもしれない。だがその瞬間、彼女が死ぬ。そうわかっていて縋ることはできなかった。
役目のためではない。
国のためでもない。
ただ、あの人に生き延びてほしかった。
流れが急に身体を横へ叩きつけた。岩肌に背を打ち、喉の奥から濁った息が漏れる。暗流は底なしのように続いていたが、やがてどこかで傾きが変わった。粘りつく圧がわずかに緩み、身体が前へ滑る。腕輪の石がまた熱を増す。
闇の向こうに、かすかな白が見えた。
次の瞬間、レオニスの身体は硬い縁に激突した。胸と脇腹を打ち、息が完全に詰まる。だが流れそのものはそこで薄れ、その身体は半ば石床へ乗り上げる形で止まった。
咳き込むたび、肺の奥に入ったものが逆流するような感覚があった。水ではない。もっと汚れた、重いものが喉を焼く。吐き出した先の床には黒ずんだ液が散った。
しばらく、動けなかった。
片膝をついたまま荒い息を繰り返し、ようやく周囲を見る。
石だった。
自然の洞窟ではない。削られ、組まれた、古い石の床。水に侵されてもなお形を保つ柱の根元。頭上は闇に沈んでいるが、丸く湾曲した天井の気配がある。空気は湿って冷たい。海の底にいるような塩気と、長く閉ざされた祈りの場に特有の乾いた匂いが混じっていた。
ぽと。
どこかで水滴が落ちた。
ぽと、ぽと、と少し間を置いてまた響く。
セラフィナが近くにいるわけでもないのに、耳の奥で水滴の音が鳴りやまない。
レオニスは右手を床につき、ゆっくり立ち上がろうとして顔を歪めた。左の肋が鋭く悲鳴を上げる。一本は確実にいっている。額からも血が流れているらしく、こめかみを伝って頬へぬるいものが落ちた。
それでも立つ。
ここで倒れているわけにはいかなかった。
一歩、踏み出す。
その途端、腕輪の石が淡く光った。まるで、白耀石のように。
壁に埋め込まれていた小さな石が、それに応じるようにほのかな白を灯す。
レオニスは足を止めた。
呼吸の音すら憚られる静けさの中、灯った光はあまりにも弱い。けれど確かに、さっきまで闇だった壁面の輪郭を浮かび上がらせている。
また一歩。
少し先の石が、順に灯った。
なにかに導かれている。
そう理解した瞬間、ぞくりと背を冷たいものが這った。道が示されているのは確かだ。だが同時に、ここがまだ人の世の延長にある場所なのか、境を一つ越えた先なのか、わからなくなる。
ぽと、ぽと、と水音が続く。
その音と石の灯りだけを頼りに、レオニスは歩き出した。
通路は時に崩れ、時に半ば水没していた。浅い水を踏むたび、靴の中へ冷たさが染みる。柱の影には海藻の枯れたようなものがこびりつき、壁の継ぎ目には古い塩の筋が白く残っている。海の底に沈んだ建物だと、嫌でもわかった。
故郷の海。
なぜか自然と胸に浮かんできたのは故郷の古い伝承だった。
幼い頃から、領の沖には沈んだ神殿があると聞かされてきた。大波のあとの静かな日に、沖の色が不自然に深く見える場所がある。石の柱のようなものが深くにうっすら見える日もある。波が荒く、潜るものもいない場所だが、あそこには昔の祈りの場が眠っているのだと、年寄りたちは酒の席で語った。誰も本気では信じていないようでいて、漁に出る者はその海域へ近づくと小さく祈りを捧げた。
ここがそうだとは言い切れない。旧都とはかなり距離もある。
けれど、壁に刻まれた一部が削れた古い紋章はローゼンフェルトに伝わる紋章によく似ている。
まさか本当にこんな立派な姿で存在しているとは思わなかった。
いや、あるのだとしても、自分がその底へ至るとは。




