第18章 砕かれる白③
「皇太子として命じる。全員、白耀石から離れろ」
低く、だが逆らわせぬ声だ。
「これ以上誰も近づくな。触れるな。欠片にも手を出すな」
「しかし殿下——」
神官がなお食い下がろうとする。
「離れろと言った!」
今度は誰も言い返せなかった。
広間の端では、すでに避難民のひとりが呻きながら崩れ落ちていた。別の神官がそのもとへ駆ける。誰かが「空気が」と叫ぶ。目に見えぬ圧が広間全体を包み始めているのが、もう誰の身体にもわかるのだろう。
兄はようやく布を持った騎士を呼び寄せ、セラフィナへ差し出させた。
「立てるか」
セラフィナはすぐには答えられなかった。けれど、白耀石から目だけは離さないまま、どうにか頷いた。
兄は布越しに妹の腕を支えさせる。自分では直接触れられない。そのことが今だけは、ひどく遠回りに見えた。
セラフィナは立ち上がりながら、削られた部分の足元に散る白い粉を見た。ほんの一片。それが彼らの言い分だった。だが、その小さな粉がまるで骨の欠片のように見えて、吐き気がさらに強くなる。
骨、と思った瞬間、手袋の下の指先がひどく冷えた。これは石の欠片ではない。もっと大切なものが砕かれた残骸だと、身体の方が先に知っていた。
「……兄上」
掠れた声で呼ぶ。
ユリウスが顔を向ける。
「これは、もう……止まらない」
「止める」
「違うの」
セラフィナは首を振った。眩暈がした。それでも言わなければならない気がした。
「議論では、もう」
兄の表情が硬くなる。
その意味は、彼にも伝わったはずだった。もうこれは、正しい理屈を積んで退ける段階ではない。誰かが石を傷つけた時点で、流れは変わった。教会も貴族も、ここから先は“まだ間に合うはずだ”と言ってさらに手を出すかもしれない。そうなれば、破れ目はもっと深くなる。
シリルが沈黙を保ったまま立っている。
神官たちは青ざめ、貴族はなお口の端を硬くしている。ただシリルだけが青ざめることも震えることもなく、いつものように口元に小さな笑みを浮かべている。
彼らの顔を見て、セラフィナははっきり悟った。後悔している者もいる。だが、だからといって止まるとは限らない。人は自分の愚かさを認めるより、押し通す方を選ぶことがある。
広間の外で鐘が鳴った。
ひとつではない。あちこちで、ばらばらに打たれている。旧都の傷が一つ深くなったことを、街じゅうが知ったのだ。
兄は短く命じた。
「セラフィナを部屋へ戻せ。医師を呼べ。白耀石の間は封鎖する」
「ですが」
「誰も入れるな。教会の者でもだ」
「国宝を傷つけた者たちは一時捕らえておけ」
騎士たちが動く。
セラフィナは支えられながらも、なお振り返った。
削られた白が見える。
乱れた光が見える。
そして、その向こうで、目には見えない流れが確かに変わってしまったことを、身体が知っていた。
これ以上の破壊を兄は止めるだろう。
王家はあの者たちへ処罰を下すだろう。
けれど、それだけで戻れるところをもう越えてしまった。
人の理ではどうにも出来ないとセラフィナは感じる。
部屋へ戻される途中、胸の内側で魚がまだ激しく打っていた。まるで、このままでは遅いと訴えるように。
自分が動かなければならない。
その思いだけが、熱と痛みの奥で恐ろしいほど静かに研がれていく。
白耀石は傷ついてしまった。清浄な光はゆっくりと失われていくのだとセラフィナにはわかる。
あれは始まりにすぎない。
そう思った瞬間、セラフィナははっきりと悟った。
待っているだけでは、次は石では済まない。
旧都も、王国も、そして自分自身も、もっと深いところから裂かれていく。
瘴気を抑えられなくなった今、残された手があるとしたら、自分の身を使うほかないのではないか。
そんな考えが、熱と痛みの底で静かに形を取り始めていた。
窓の外では、夕光が石壁を白く染めていた。
その白さが、今はもう祈りの色には見えなかった。
あれが溢れ続けるのなら、止めるために削るのは石ではない。
次に削れるのは、自分の方なのだと、セラフィナは静かに思った。
怖い、とは思わなかった。
それが一番、怖かった。




