第18章 砕かれる白②
白耀石が見えた。
見慣れていたはずの白だった。城の最奥で、ずっと清浄と祈りの象徴だった巨大な石。だが今は違った。表面の一部が不自然に削られていた。爪でひっかいたような浅い傷ではない。白い肌を刃で抉ったような、鋭く新しい欠損だった。足元には細かな石の粉と、小さな欠片が散っている。聖具として整えられているはずの場所に、石を削るための金具まで落ちていた。
そして光が乱れている。
白耀石はいつも静かに淡く光っていた。目を刺すような強さではなく、そこにあるだけで空気を澄ませるような乳白色の柔らかな光だった。けれど今は違う。光の内側に脈が走っている。明滅しているわけではないのに、どこか深いところで明るさが揺れ、息苦しいほど不安定だった。まるで蝋燭が消える前の火のように、危うい光だ。
石の周囲では、空気そのものがひどく薄く見えた。瘴気が目に見えて立ちのぼっているわけではない。だが、流れが変わった。封じられていたものが傷口を見つけたように、石の周囲で蠢いている。
魚がまるで絶叫するかのごとく暴れた。
声はない。けれど確かにそう感じた。胸の下を激しく走り、肋骨の内側を何度も打つ。セラフィナはその場で息を詰め、片手で胸を押さえた。喉の奥から吐き気が込み上げる。膝が震えて転びそうになるのをなんとか押しとどめる。
「姫殿下!」
背後からついて来ていたらしい侍女が叫ぶ。
広間の中央で、ユリウスがその声に振り返る。その顔には驚愕と怒りと焦りが一度に浮かんでいた。すぐそばにはシリルが立ち、その向こうには顔を青ざめさせた神官と、頬を強張らせた貴族が二人いた。誰が白耀石に手を出したのか、それはもう顔を見ただけで察せられた。
「なぜ出てきた!」
兄が駆け寄ろうとする。
けれどセラフィナは、ふらつきながらも白耀石の方へ一歩進んだ。
「……何を、したの」
自分でも驚くほど低い声だった。
自分が壊されるような感覚が、石の傷から伝わってきた。怒りではない。もっと根のところが、ぎりと締まる感触だった。
誰もすぐには答えなかった。代わりに、年嵩の神官が一歩前へ出て、乾いた唇を舐める。
「ごく表面を、ほんのわずかに整えただけでございます」
「整えた」
「はい。あくまで試みとして、ごく小さな一片を——」
「嘘をつくな」
兄の声がそれを断ち切った。
「削り出しを命じた者も、刃を持ち込んだ者も、お前たちだろう」
神官の顔が引きつる。
その横で、伯爵らしい男が声を荒げた。
「旧都だけを守っていて何になる!我が領ではすでに子らが病に伏しているのだぞ」
「だから石を削ったのか」
「ほんの一片だ!」
「その“ほんの一片”で何が起きたか見ろ!」
兄の怒声が響く。
だが、セラフィナの耳にはもうその応酬が遠かった。石の傷から目が離せない。たった一欠けら。彼らはそう言う。けれど、セラフィナにはそう見えなかった。あれは表面の傷ではない。もっと深く、流れそのものが引き裂かれている。
石に駆け寄ろうとした瞬間、視界が大きく揺れた。胸の奥で魚が激しく跳ね、何かが身体の内側から引き剥がされていくような痛みが走る。息が詰まり、膝が折れかけた。
「セラフィナ!」
兄が腕を伸ばす。だが直接は触れられない。その一瞬のためらいのあいだに、セラフィナは自分で石の手前まで辿り着き、そこで床に片膝をついた。
冷たい石床に手をつく。
目の前には削られた白耀石の傷。
そこから滲むように、乱れた光が脈打っている。
触れてはいない。
それでもわかった。
傷ついたのは石だけではない。
その向こうにあったものごと、破れ始めている。
「……だめ」
喉の奥からひどく細い声が零れた。
「これ、は……」
言葉にならない。
魚が苦しいのか、自分が苦しいのかももうわからない。胸の奥が灼けるように痛み、同時に芯から冷えていく。石の表面を削っただけではない。流れを押さえていた何かが、そこから漏れ出そうとしている。
シリルが数歩離れた場所から、その様子を見ていた。顔色は変えている。だが、それでもなお観察する目だった。苦しむセラフィナを案じる目ではなく、何が起きているのかを量ろうとする目だった。
「姫殿下」
シリルの呼びかけるその声はあくまで穏やかだった。
「石との共鳴が強く出ているのでしょう。いったんお下がりに」
セラフィナは顔を上げた。
「……共鳴、では、ないわ」
声が擦れて切れる。
「もう、破れて、る」
その一言に、広間の空気がわずかに凍った。
兄が眉を寄せる。
「何がだ」
セラフィナは胸を押さえたまま、白耀石を見た。
「流れが……」
息が続かない。
「押さえていたものが……」
最後までは言えなかった。けれど兄には、それで十分だったらしい。ユリウスは石の傷と妹の顔を見比べ、その表情をさらに険しくした。
そのとき、広間の外で、息を切らした足音が石床を打った。
「殿下!」
騎士の声は、先ほどまでとは明らかに違っていた。報告というより、ほとんど悲鳴に近い。
「鐘楼下の奈落より、瘴気が噴き出しております!」
広間の空気が、また別の意味で凍りついた。
「何だと」
「先ほどまで滞っていた流れが、一気に……!裂け目の底から黒い濁りが溢れ、広場の方へ——避難民の列にも及び始めております!」
セラフィナは息を詰めた。
やはり、と胸の奥で魚がひどく激しく跳ねる。
白耀石が押さえていたのだ。
あの底へ沈み、国の底を這い続けていたものを。
それが破れた。
ならば溢れるのは、旧都だけではない。
地の底で繋がっているかぎり、北でも、西でも、まだ顔も知らぬ土地でも、黒いものは底から噴き上がってくる。




