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第18章 砕かれる白①

 

 兄が部屋を出てほどなくして、廊下の向こうで何かがはっきりと変わった。


 それまでにも人の走る気配や短い命令の声は絶えずあった。だが今のざわめきは、それとは質が違った。ただ慌ただしいのではない。何かひとつ、取り返しのつかないことが起きたときにだけ生まれるざわめきだった。抑え込もうとしても抑えきれず、恐怖と困惑が混じって広がっていく音だった。


 セラフィナは寝台の上で浅く息をした。胸の内側で魚が荒れている。これまでの拒絶とは比べものにならなかった。熱を帯びたものが衣の下を走り、胸骨の裏を掻きむしるように何度も身を捩る。そのたび、石に何かが起きているのだと理屈ではなくわかった。


 扉の外には兄が残した騎士が立っている。

 兄の命を守り、セラフィナを外に出すつもりは無いようだ。


 けれど、もう待ってはいられなかった。


 セラフィナは寝台の縁に手をつき、立ち上がる。足の裏が床についた瞬間、鈍い眩暈がした。視界が揺れ、壁が傾ぐ。それでも、今はそれを気にしている暇がなかった。扉へ向かって一歩踏み出す。胸の内側から魚が激しく跳ね、まるで急げと叫ぶようだった。


「姫様!」


 傍に控えていた侍女が駆け寄ろうとし、また寸前で止まる。扉の脇にいた騎士が反応して、一歩前へ出た。


「姫殿下、お止まりください」

「退いて」

「できませぬ。殿下より——」

「退きなさい」


 声は掠れていたのに、自分でも驚くほど鋭かった。騎士は一瞬だけ息を詰めたが、それでも動かない。命令に背けば立場を失うのだろうし、何よりこの病み上がりの王女を広間へ行かせること自体が正気ではないと思っているのだろう。


「お通しできません」

「では、力ずくで止めるの」


 騎士の顔が強張る。

 王太子の直命がある以上、騎士も本気で止めるつもりなのだろう。だからこそ、セラフィナは次の瞬間、自分の手袋に包まれた右手へ、左手の指先を伸ばした。

 侍女が小さく息を呑む。


 手袋の縁をつまむ。指先が少し震えた。怖くないわけではなかった。これまでその布に守られ、縛られてきた。ずっと奪われる側だった。

 けれど今だけは、それをわたしが使う。


 ゆっくりと、手袋を外した。


 白い指先が露わになる。

 病に削がれた細い手だった。頼りなく、熱のせいでわずかに赤みを帯びている。それでも、その手が見えた瞬間、騎士の顔色が変わった。侍女も思わず半歩退く。


 セラフィナは手袋を握ったまま、静かに言った。


「触れたら、死ぬのでしょう」


 脅すつもりの声ではなかった。ただ、長年みなが信じてきたことをそのまま口にしただけだった。


「止めたいなら、どうぞ」


 騎士は動けなかった。

 喉がひとつ鳴る。掴みにいくべきだと理性ではわかっていても、身体が一歩も前へ出ない。白い指先を前にしたまま、彼はただ立ち尽くした。


 セラフィナはその横を通る。誰にも触れられず、誰も触れられないまま、扉を開けた。


 廊下へ出た途端、空気が違った。


 冷たい。乾いているのに、どこか金気を含んだような匂いがする。遠くで誰かが叫んだ。別の場所では怒鳴り声が重なり、足音が石床を激しく打つ。白耀石の安置されている広間の方角から、ただならぬざわめきが流れてくる。


 魚がまた跳ねた。

 胸の内側を引き裂くような痛みに、セラフィナは片手で壁を支える。呼吸が浅くなる。けれど止まれなかった。今ここで膝をつけば、すぐに誰かが追いついて止めるだろう。だから、痛みを抱えたまま歩いた。


 ひとつ角を曲がるごとに、空気が悪くなった。

 瘴気そのものが廊下へ滲み出しているわけではない。けれど、目に見えぬ流れが急に変わったときの、肌の粟立つような違和感があった。石の建物全体が、どこか深いところで軋んでいるようだった。


 広間の手前まで来たところで、王家の騎士が二人、入り口を塞ぐように立っていた。だがセラフィナの姿を見るなり、二人ともひどく動揺した顔になる。


「姫殿下……!」

「お戻りください、危険です」

「何があったの」


 答えは返らなかった。


 その代わり、広間の奥から兄の怒声が響いた。


「誰の許しで手を出した!」


 低く押さえたまま、それでも石壁を震わせるほどの声だった。ユリウスが本気で怒っているのだと、聞いただけでわかった。続いて何人かが弁明する声。神官たちの取り繕うような言い訳。貴族の苛立った声。誰もが少しずつ責任を押しつけ合っている。


 セラフィナは入り口に立つ騎士たちを見た。


「退いて」

「ですが」


 そこで彼女は、まだ手袋を外したままの右手を静かに持ち上げた。

 二人の顔からさっと血の気が引く。


「退きなさい」


 それだけで十分だった。

 二人にはもう止められなかった。恐怖というより、セラフィナ自身の目を見て、それ以上身体を張ることができなくなったのかもしれない。片方がわずかに身を引き、その隙にセラフィナは広間へ足を踏み入れた。


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