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第17章 分けられる奇跡③

 夜になる頃、兄は再び部屋へ戻ってきた。


 今度は隠しきれぬ疲労がそのまま表へ出ていた。喉を使いすぎたのか、声にも掠れがある。


「……まだ決着はついていない」

 入ってすぐ、そう言った。


 セラフィナは寝台の上で身を起こす。


「押し切れなかったの」

「今日のところは退けた」

 兄は短く答える。

「だが、退けただけだ。皆、納得して引いたわけではない。明日にはまた別の形で持ち出してくるだろう」


 兄は部屋の中央で立ち止まったまま、額へ手をやる。


「“ほんの一片だけ”“試験的に”“各地の民心を落ち着かせるため”——言い方はいくらでもある」

「そして、本音は自領へ持ち帰りたい」

「ああ」


 兄は認めた。


「自分の土地を守りたい者、王都への不満を晴らしたい者、教会へ恩を売りたい者。理由はそれぞれだ。だが皆、“より多くを救うため”という顔をして言う」


 セラフィナはその言葉を聞きながら、ぼんやりと白耀石のことを思った。城の中心に置かれ、清浄の象徴として崇められてきた巨大な白。その石がいまや、信仰の核ではなく、争いを産もうとしている。


 兄は静かに続ける。


「父上に使者を出した。正式に禁を下していただく」

「間に合う?」

「……間に合わせる」


 またその言い方だ、とセラフィナは思った。兄は嘘をつかない。だが、できるとも言わない。


 しばらく沈黙が落ちた。

 やがて兄が妹を見る。


「お前は、石に何を感じている」


 セラフィナは目を上げた。


「何を、とは」

「先ほどから様子がおかしい。話に出るだけで顔色が変わる」

 兄の声は慎重だった。

「ただ嫌だというだけではないように見える」


 セラフィナは少し考えた。言葉にできるかどうかではなく、言ってよいのかどうかでもなく、どう言えばこの感覚に近づけるのかがわからなかった。


「……裂かれる感じがする」


 ようやく、それだけ言う。

 黙ったまま、兄の目が少しだけ揺れた。理解したのではなく、理解できないものを前にした時の目だとわかった。それでも、否定しなかった。


「石が、ではないの」


 セラフィナは胸に手を置いた。


「もっとこちらに近い……何か。無理に引き剥がされるみたいに」


 それが魚のことだとは言わなかった。兄がどこまで知っているのか、今もわからない。わからないまま話すには、あまりに深い場所の感覚だった。


 兄は長く沈黙したあと、低く答えた。


「ならばなおさら、やらせぬ」


 その言い方だけは迷いがなかった。


 セラフィナは兄を見た。止めるための言葉なのか、守るための言葉なのか、もう区別はつかなかった。おそらく兄自身もついていないのだろう。


 そのとき、扉の外で急な足音が止まった。


「殿下!」


 騎士の緊迫した声だった。

 兄が即座に振り返る。


「何だ」

「白耀石の光が——」


 続く報告は早口で、最初はうまく聞き取れなかった。だが、次の言葉だけははっきりした。


「……乱れました」


 部屋の空気がまた変わる。


 兄は一瞬で表情を引き締めると、扉へ向かった。だがセラフィナの方が先に立ち上がろうとした。体が追いつかず、寝台の縁へ手をつく。それでも止まれなかった。今の報せは、ただの不安ではない。石そのものに何かが起きたのだ。


「行くな」

 兄の制止が飛ぶ。

「石が」

「行くな、セラフィナ」


 その声の強さに足が止まる。

 兄は扉口で振り返り、今度は王家代表でも兄でもなく、切迫した人間の顔で言った。


「ここにいろ。誰も出すな」


 外の騎士へ向けた命令だった。

 だがセラフィナには、それが壁のように聞こえた。


 扉が閉まる。

 重い沈黙が残る。


 次の瞬間、胸の内側で魚がひどく激しく跳ねた。これまでの拒絶とは違う。危機そのものに触れたような反応だった。セラフィナは息を詰め、両手で胸を押さえる。


 白耀石に、何かが起きている。


 理屈ではなく、それだけははっきりわかった。兄が止めようと、扉の外に騎士が立とうと、もう待っているだけではいられないところまで来ている。白耀石は守られているのではなく、奪われ、削られ、壊されようとしている。そしてそのたびに、この国の底を流れていたものが地上へ滲み出してくる。


 セラフィナは浅い呼吸を繰り返した。

 熱がある。体は重い。けれど、恐ろしいほど意識だけは澄んでいた。


 このままでは駄目だ。

 石も。

 旧都も。

 自分も。


 窓の向こうで鐘が鳴る。

 白い光はもう夕刻へ傾き、冷たく部屋の中を染めている。


 その光の中で、セラフィナはゆっくりと目を開けた。

 もう待つだけの時間は終わりだと、初めてはっきりわかった。


 怖い、とは思わなかった。そんなことを思う余裕はもうなくなっていた。

 外ではなお、人々が石の扱いを決めようとしていた。

 より多くを救うために。民を安心させるために。各地へ奇跡を分けるために。もっともらしい言葉はいくらでもある。けれどそのどれもが、魚の拒絶する方向だった。


 白耀石の光は乱れた。

 その軋みは、もはや隠しきれないところまで来ている。


 セラフィナは胸へ手を当てたまま、扉の方を見た。


 止めなければならない。


 白い石を見つめる人々の誰よりも、その綻びに近いのは自分なのだと、セラフィナだけが知っていた。


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