第17章 分けられる奇跡②
セラフィナは枕元の寝具を指先で握る。
「お兄様は、止められるの」
兄は少しだけ黙った。
「止める」
「止められるのかと聞いています」
その問いに、兄は初めて視線を伏せた。
答えは、それだけで十分だった。
王家の代表として来ているのに、兄にも止めきれる確信がない。事態はもう旧都だけの問題ではなく、国全体の不安へ変わり始めている。その前で、白耀石は聖遺物でありながら、同時に分捕り合いの中心にもなりかけているのだ。
「少なくとも、私がここにいるあいだは許さぬ」
兄は言った。
「試しであろうと、一片であろうとだ」
セラフィナは兄を見た。その言葉に嘘はない。けれど、それでも足りないこともわかった。
兄はさらに続ける。
「シリルとかいう神官も露骨には賛同していない。だが完全に退けてもいない」
「……あの方らしいわ」
口にしてから、自分がもうあの人の動き方を知っていることに気づいた。賛同もせず、退けもせず、ただ道を残しておく。いつもそうだった。
「“姫殿下のお力を適切にお使いいただけば、より多くが救われるかもしれない”と」
兄の口元がわずかに歪む。
「慎重な顔で、最も危うい道へ人を誘う」
兄の言葉が、胸の奥で静かに落ちた。慎重な顔で、最も危うい道へ。そういう言い方を、自分はまだ探せていなかった。言葉にしてもらって初めて、ずっと感じていた気持ちに輪郭が生まれた気がした。
セラフィナは何も言わなかった。けれど、その言葉だけで十分に息苦しかった。より多くを救うため。姫の力を適切に。誰も彼も、同じような言葉で自分を役目へ押し戻そうとする。自分の痛みや身体ではなく、まず使い道を見ている。そこに善意が混じるほど、なおさら息が詰まった。
「お前は部屋を出るな」
兄が言う。
「今日これから教会と貴族どもを集める。話は私がつける」
「……話で済めばよいですね」
兄の眉が寄る。
「どういう意味だ」
「もう皆、祈りや理屈ではなく、石を欲しがっている」
セラフィナは低く言った。
「一つの奇跡を皆で分ければよいと思っている。そうなれば、話し合いで止まるとは思えません」
暴動──二人とも口にはしなかったが、脳裏に浮かんだ言葉は一緒だろう。
兄はしばらく黙っていた。王都で政務を担い、理を積み重ねて人を動かしてきた男が、今ここで妹の言葉を否定できないでいる。セラフィナはそこに、国そのものの綻びを見た気がした。
やがて兄は短く息を吐く。
「……それでも止める」
それ以上は同じ言葉の繰り返しにしかならないとわかったのか、兄は踵を返した。
「後でまた来る。何か異変があればすぐ呼べ」
「お兄様」
兄が振り向く。
「石を分けてはいけない」
セラフィナは自分でも驚くほどはっきり言った。
「絶対に」
兄は一瞬だけ目を細めた。王家代表としてではなく、妹の様子を見つめる兄の顔だった。
「ああ」
低く答え、
「できる限り」
と言い添えて部屋を出た。
その「できる限り」が、セラフィナには何より不安だった。
できる限り、という言葉は、できない時の言い訳をあらかじめ用意している。それを兄が知らぬはずはない。だからこそ、その一言だけが部屋に残った。
午後、旧都の中心にある一室で、兄は教会と有力貴族たちを集めたらしい。セラフィナはその場へ行けない。けれど、部屋から遠く離れていても、人が激しく言い争うときの空気は伝わってくるものだと知った。
最初は低く押し殺した声だった。次第にそれが大きくなる。扉の外を行き来する騎士たちの足音が荒くなり、侍女たちの囁きも強張った。誰かが早足で走り去り、別の誰かが「まだ決まっておりません」と繰り返している。
夕刻近く、若い侍女が薬湯を運んできた。顔色が悪い。
「何があったの」
セラフィナが問うと、侍女は一瞬ひどく迷った。
「……わたくしがお話ししてよいことか」
「構いません」
「皇太子殿下が、お怒りになっておられます」
それは少し意外だった。兄は人前では滅多に感情を露わにしない。それ程知っているわけではないが、王都でそう評価されているのを耳にしていた。
「珍しいわね」
侍女は頷く。
「神官様方が……白耀石は神の恩寵なのだから、より多くの地へ届くようお配りすべきだと」
「配る」
「はい。ほんの一片であっても、祈りの核になると」
侍女は声を潜める。
「ある伯爵様は、ご自分の領では幼子にも病が出ているとおっしゃって……それなのに旧都と王都にだけ石の恩寵を留めるのは不公平だ、と」
セラフィナは目を伏せた。
幼子。病。そういう言葉を出されれば、正しさの形を取れてしまう。だからなおさら醜い。
「兄は」
「認めておられません」
侍女はすぐに答えた。
「けれど、皆さま引かれぬようで……試しに削り出すだけなら、という話も」
その瞬間、薬湯の匂いが急に重くなった。吐き気が込み上げ、セラフィナは顔を背ける。身体の内側で何かが強張っているのがわかった。魚ではなく、もっと根のところで。
削る、という言葉だけで、こんなにも身体が拒む。
侍女が慌てて器を取り下げる。
「姫様」
「……だめ」
セラフィナは胸を押さえた。
「だめなの」
何がどう駄目なのかを説明する言葉はない。ただ、本能のような拒絶だけがあった。白耀石を削る。その行為を想像するだけで、衣の下の魚が必死に身をよじり、身体の内側から警鐘を鳴らしてくる。
侍女は困ったように立ち尽くした。
「皇太子殿下へ、お伝えいたしましょうか」
セラフィナは小さく首を振る。もう伝えている。自分の言葉も、兄の反対も、向こうには届いている。それでも議論が続いているのなら、もはや理の話ではなかった。彼らはすでに、石を欲しがっている。




