第17章 分けられる奇跡①
兄が来てから、旧都の空気は少しだけ変わった。
混乱が消えたわけではない。ただ、乱れていたものに形だけは与えられた。騎士の巡回は組み直され、避難民の区画も見直され、教会の神官たちが勝手に広場へ人を集めることもいったんは抑えられた。
王家の名が前へ出るだけで、人はまだ従う。崩れかけた秩序を辛うじて繋いでいるのは、もはや奇跡でも祈りでもなく、その古びた権威の残り香だった。
けれど、表面が整えば整うほど、奥で悪化しているものはかえってはっきりした。
その日の夕刻には、北の領から新たな急報が入った。夜半には西の海沿いでも、朝には街道沿いの小村でも、発熱と痙攣を起こす者が出たという話が重なった。畑の一角だけが黒く焼けたように変色したとか、井戸の水が濁ったとか、家畜が泡を吹いて倒れたとか、細かな報せも次々と運び込まれてくる。
どれも旧都の奈落ほどあからさまではない。だが、だからこそ不気味だった。瘴気が、目に見えぬまま王国の底を舐めるように這い始めている。
セラフィナは部屋を出ることを禁じられたまま、その報せを断片で聞いていた。
扉の外を行き交う足音の調子でわかることもあった。侍女が湯を運ぶ手元の震えで伝わることもあった。
兄がこの部屋を訪れなくても、外で人々が何を恐れているのかは、薄い壁の向こうから滲んでくる。
そして、白耀石の名が出るたびに、衣の下の魚が静かに強張った。
最初は気のせいかと思った。だが違った。
石の話になるたび、胸の内側で何かがぴくりと身を縮める。誰かが白耀石に触れた、光が弱まった、祈りの場所を移した、そんな言葉の断片だけで、魚は目に見えぬ水の中を怯えるように泳いだ。
瘴気に灼かれて苦しむときとは別の、もっと本能的な拒絶に近かった。
その感覚が最も強くなったのは、翌朝、兄が再び部屋を訪れたときだった。
また来た、と思った。止めるために来た人間に、また来たと思ってしまう自分が少し情けなく思う。
兄は前夜よりもさらに疲れて見えた。着替えは済ませていたが、目の下の隈は隠れず、声にも乾きがあった。夜通し誰かと話し、押し返し、決めきれないものを抱えた顔だった。
「休んでいたか」
最初の言葉はそれだった。
セラフィナは寝台の背に寄りかかったまま、兄を見る。
「少し」
嘘ではなかった。眠ったとは言い難くても、意識を失うように沈んだ時間はあった。
兄は部屋の中央へ進み、椅子を勧められても座らなかった。
「各地の報せがまた増えた」
「……そう」
「北の領では病が出ている。西では土地の変色も確認された。まだ旧都ほどではないが、放置すれば同じことになるだろうと皆が怯えている」
……皆。
そう言った声の奥に、疲労と苛立ちが混じっていた。王都の者も、地方の者も、貴族も民も、結局はみな自分の足元から崩れたくないだけなのだろう。そう思うと、セラフィナの胸は冷えた。
兄は少し間を置いて続ける。
「教会がまた騒ぎ始めた」
セラフィナは返事をしなかった。
「白耀石の力が一つの場所へ偏っているからだと言っている。だから、欠片を各地へ置くべきだと」
「……欠片」
「試しにごく小さな一片だけを削り出す、と」
そこで兄の声が低くなった。
「民を落ち着かせるための象徴になる、などと抜かしている」
その言葉を聞いた瞬間、魚が激しく身を捩った。
胸の奥がひやりと冷える。次いで鈍い吐き気が込み上げ、セラフィナは思わず口元を押さえた。兄の目が鋭くなる。
「どうした」
「……だめ」
自分でも何を言っているのかわからないまま、それだけが零れた。
「それは……だめ」
「何がだ」
「削っては、だめ」
兄は黙った。セラフィナは胸を押さえたまま浅く息をする。魚が落ち着かない。普段は痛みの底で黙っているのに、今は逃げ場を探すように、衣の下をせわしなく滑っている。
「理由を言えるか」
兄の問いは低く、慎重だった。
セラフィナは首を振った。
「わからない……でも、いけない」
「感覚か」
「……そう」
「石が嫌がっているように見えるのか」
「違う」
セラフィナは目を閉じた。違う。嫌がっているのは石ではない。もっと別のものだ。もっと生々しく、自分の内側に近い何か。
「魚が」
そう言いかけて、言葉を飲む。
兄がそれを聞き逃したふうでもなかったが、追及はしなかった。
「父上も私も反対している」
兄は静かに言う。
「だが向こうも引かぬ。旧都だけでなく各地で被害が出れば、王都と旧都ばかり守るのかという声は強まる」
「守りたいのは、自分の領地だけでしょう」
「そうだ」
兄は即答した。
「だがそれでも“民のため”という顔はする。教会もまた同じだ。より多くを救うため、と」
その言葉はまっすぐだった。飾らないからこそ、醜かった。




