第16章 白耀石の軋み③
兄はしばらく何も言わなかった。
その沈黙のあと、ようやく口を開く。
「……いるかもしれぬからと、お前が近づいてよいものではない」
「なぜ」
「なぜ、だと?」
「わたしは行きます」
「行かせるものか!」
「お兄様に止める権利があるのですか」
「ある」
「今さら?」
「今さらでもだ」
「結局また、何も教えず、何も決めさせず、わたしだけを——」
そこで兄の何かが切れた。
「お前は、まだわかっていないのか!」
張り詰めた声が部屋に落ちる。セラフィナはわずかに身を竦めた。兄がここまで感情を露わにすること自体、ほとんど記憶にない。
「この部屋から出ることは許可しない」
「なぜ」
「まだ言うのか」
「行かなければ」
「あいつが何を守ろうとしたか気づいていないのか!」
兄の声はほとんど怒鳴り声だった。
「あいつは知っていた!」
その言葉が、鋭く落ちる。
室内の空気が、一瞬だけ止まった気がした。
兄は一歩踏み出しかけ、はっと止まった。だがもう遅い。口をついて出た言葉は、そのまま次を引きずり出す。
「旧都へ出る前に、私が伝えた。お前に触れれば死ぬのは相手ではない、お前の方だと……!レオニスは誰を守った?あの日も——お前に手を伸ばせば、お前が死ぬとわかっていたから、あいつは——」
そこではじめて、兄は口を噤んだ。
あまりにも遅かった。
セラフィナは兄を見た。
見たまま、動けなかった。瞬きだけを何度も繰り返す。目元に熱が集まってくるのに、少しも涙は浮かばない。ただ、苦しくて浅い呼吸を繰り返す。
旧都へ出る前に。
私が伝えた。
お前に触れれば死ぬのは、お前の方だと。
その意味が、熱に焼かれた胸の奥へゆっくり沈みこんでいく。
レオニスは知っていたのだ。
旅に出る前に。
真実を知ってなお、あの人は距離を変えなかった。
手袋越しの支えも、気遣いも、まなざしも、低い声も、何ひとつ変えずに。
そしてあのとき、わたしに手を伸ばせばわたしが死ぬとわかって、自分から落ちた。
胸の奥に、ひどく静かな衝撃が広がった。泣きたいのに泣くことはできなかった。ただ息がうまく入ってこない。どこか深いところが強く締めつけられ、言葉になる前の感情だけが胸の内で押し合っている。
兄もまた、自分が何を口にしたのか理解したのだろう。表情が一瞬で沈んだ。
「……」
だがもう遅い。
言葉は戻らない。
「……あの方は」
ようやく出たセラフィナの声は、ほとんど音にならなかった。
「わたしのために、落ちたのですね」
兄は答えなかった。
答えられぬのではなく、答えるべきだとわかっているのに、それがどれほど妹を傷つけるかもわかっている顔だった。
それでも最後には、短く言った。
「ああ」
それだけで十分だった。
セラフィナは目を伏せる。
ずっと、逆だと思っていた。触れれば、レオニスが死ぬのだと。だから掴まなかったのだと。
それは救いのようでもあり、同時に、新しい傷でもあった。
あの時のレオニスの瞳は、恐怖ではなく優しくセラフィナをみつめていたのに。
なぜ自分だけ知らされなかったのか。
なぜあの人には伝え、自分には伏せたのか。
いつだって、自分だけが輪の外に置かれていたのだと思い知らされる。
セラフィナはゆっくりと目を開けた。
兄を見る。
だがその視線は、兄を見ているようでいて、もっと遠い何かを見ていた。
「……あの方には教えて、わたしは知らなかったのですね」
「必要だった」
兄の声は低い。
「危険を承知で護衛につける以上、知らせぬわけにはいかなかった」
「わたしは?」
兄の喉がひとつ動いた。
「お前にそれを告げれば——」
「わたしがどうしたのです」
「……」
また沈黙。
言わなくてもわかった。
死を選ぶかもしれないと。自分をさらに責めるかもしれないと。あるいは何か別の形で壊れるかもしれないと。そう判断されたのだ。
セラフィナは小さく息を吐いた。笑ったわけではない。胸の奥で乾いたものがきしんだだけだった。
「やはりわたしだけが、いつも最後なのですね」
その一言に、兄の顔がひどく痛そうに歪んだ。
責めたい気持ちと、もうどうでもいいという気持ちが、胸の中で静かに並んでいた。どちらが本当なのか、自分でもわからなかった。
セラフィナはもうそれ以上責めなかった。責めたところで、今さら何も変わらない。
ユリウスはしばらく言葉を探していた。やがて、押し出すように言う。
「私は、お前を生かして連れ帰るために来た」
セラフィナは返事をしない。
「王命でもある。だが、それだけではない」
「……今さらです」
「わかっている」
兄はそう言った。
否定せず、ただ受けた。その言い方だけが妙に静かで、かえって重かった。
「それでも止める」
ユリウスは続ける。
「お前がどう思おうと、今ここで瘴気だまりへ向かうことだけは許さぬ」
強い声ではなかった。だが覆し難い決定の声だった。
王家の代表としての命令でもあり、兄としての必死さでもあった。
セラフィナはすぐには答えなかった。
胸の内では別の考えばかりが渦巻いていた。
レオニス、どうして。
あのときわたしの手を取って、あなたが助かるのなら、それでよかったのに。
こんな空虚な世界へ残されるくらいなら、わたしが落ちればよかった。
兄の声は遠かった。
部屋の白さも、熱も、胸の痛みも、すべての上をその事実だけが静かに覆っていく。
あの黒の向こうに、まだあの人がいるのなら。
ますます、見つけに行かなければならない。
兄は妹の顔色が変わったのを見て、何か言いかけた。
だが結局、飲み込んだ。これ以上言葉を重ねても、今は届かないと悟ったのかもしれない。
「侍女と騎士の配置は変える」
やがて事務的な声音に戻して言う。
「お前は休め。外へは出さぬ」
「……そう」
従順な返答だった。
従ったわけではないことを、兄もわかっていた。
ユリウスはしばらくその場に立っていた。何かを言うべきか迷うように。だが最後にはただ一礼にも似た動きで踵を返し、扉へ向かった。
そこでふと、視線が枕元の小卓に落ちる。
便箋が二枚、重ねたまま置かれていた。上の紙の端には、乾ききったばかりのインクがわずかに光っている。
兄の足が、ごく一瞬だけ止まった。
宛名までは見えなかったはずだ。だが、この状況で妹が紙と筆を取ったこと、それが何を意味しうるかくらい、察するには十分だったのだろう。ユリウスの横顔がわずかに硬くなる。
それでも彼は近づかなかった。
触れも、読もうともしない。
ただほんの一拍だけ長くそこを見てから、扉を開けた。
「……後で薬を飲め」
それだけを残して、兄は出ていった。
扉が閉まる。
再び静寂が戻る。
セラフィナはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。立っているだけで息が苦しい。けれど寝台へ戻る気にもなれない。胸の中が、痛みとも熱ともつかぬものでいっぱいだった。
やがてふらつく足で小卓へ近づき、上に置かれた紙へ視線を落とす。
家族宛ての手紙。
その下に隠した、レオニス宛ての、書きかけの紙。
そっと上の便箋を持ち上げる。
レオニス様へ。
あなたが、まだどこかにおられるのなら。
そこから先は、やはり白いままだった。
セラフィナはその一行を見つめた。
兄の言葉が、また胸の奥で響く。
——旧都へ出る前に、私が伝えた。
——お前に触れれば死ぬのは、お前の方だと。
知っていたのですね。
そのうえで、守ってくださったのですね。
紙の上のたった一行が、先ほどまでとは少し違って見えた。消えかけた願いのようでもあり、ようやく形を持ち始めた痛みのようでもあった。
衣の下で魚が弱く動く。
まるでそれ以上考えるなとでも言うように。
けれど考えずにはいられなかった。
もし生きているなら。
もしあの黒の向こうでまだ息をしているなら。
わたしを唯一、ただの人として接してくれたあの人を、このまま瘴気の底へ置いておくことなどできるはずがなかった。
扉の外で、再び慌ただしい足音が走る。
低い声で交わされる報告の断片が聞こえた。北の領から新たな急使。旧都南門近くで発作。白耀石の光の乱れ。
世界は待ってくれない。
兄に止められても、王家が来ても、現実は止まらない。
セラフィナはゆっくりと便箋を伏せ、二枚の紙を元のように重ねた。家族への言葉の下へ、言えなかった願いを隠す。
今はまだ、この紙を誰にも見せたくなかった。
兄にも。
まして、もし戻ってきたとしても、あの人本人にも。
静かに息を吸う。
胸が痛む。
熱もある。
身体はまだひどく重い。
それでも、心の奥だけが冷たく澄んでいた。
兄は自分を止めるのだろう。
王家はセラフィナを守りたいのだと言うだろう。
教会も貴族も石とセラフィナに奇跡を求めるだろう。
けれど、そのどれもが、あの黒の向こうにいるかもしれない人を連れ戻してはくれない。
ならば、やはり自分で行くしかない。
今すぐではない。
兄に監視を厚くされた以上、無理に動けばその場で監禁されるだけだ。
だが機会は探す。
必ず。
窓の外では、昼の白い光の向こうで鐘が鳴っていた。
災厄を告げる不揃いな音が、絶えず空を打ち続けている。
セラフィナは目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、奈落ではなかった。
優しくまぶしいものを見るように細められた、美しい灰色。
「……待っていて」
ほとんど声にならない囁きが零れる。言葉にすることで、何かが少しだけ形になる気がした。届かなくても、声にしなければ消えてしまいそうだったからだ。
それが誰に届くわけでもないとわかっていても、止められなかった。
深い青緑の瞳にはまだ涙はなかった。
あるのはただ、静かで危うい決意だけだった。
白耀石の光はなお揺らぎ、旧都の傷は広がり続けていた。
そしてその軋みは、やがてこの国全体を巻き込む破綻の前触れとして、まだ誰にも見えぬ形で確かに進み始めていた。




