第16章 白耀石の軋み②
結局、セラフィナが寝台を降りたのは昼前だった。
熱はまだ引いていなかった。額の火照りは鈍く頭の芯を焼き、胸の奥には息をするたび重い痛みがあった。喉は荒れ、咳を飲み込むたび鉄の味が上がってくる。それでもじっとしてはいられなかった。鐘楼の下に溜まる瘴気は今この瞬間も濃くなっているかもしれず、その先にまだレオニスがいるかもしれないのだと思うと、寝台に横たわっていること自体が耐え難かった。
素足が床へ触れた瞬間、膝がわずかに震えた。立ち上がろうとして寝台の柱へ手をつく。視界がぐらりと揺れ、白い壁が遠のきかけた。それでも息を整え、どうにか身体を起こす。
「姫様……!」
背後で侍女が小さく悲鳴を上げた。控えていた若い侍女が駆け寄ろうとして、だが寸前で足を止める。布越しなら支えられるはずだとわかっていても、咄嗟には手が出ないのだろう。その逡巡が今のセラフィナにはもう珍しくもなかった。
「広場へ行きます」
掠れた声で言う。
侍女の顔から血の気が引いた。
「いけません……!とても歩けるお身体では」
「歩けるかどうかではありません」
「ですが」
「鐘楼の下まで行くわ」
それを聞いた途端、扉際に控えていた騎士まで表情を変えた。
広場ではない。鐘楼の下。あの裂け目へ近づくと言っているのだ。寝台の上で朦朧としていた姫が、朝よりよほど危うい決意を抱いていることが、ようやく誰の目にもわかったらしい。
「姫殿下、それは許されませぬ」
騎士が一歩前へ出た。
「今のお身体であの場所へ近づけば——」
「近づかなければわかりません」
セラフィナは低く言った。
「まだ瘴気の流れが残っているのなら、止めなければならないのです」
止めなければならない。
ひとかけらも残さずに。
そうすれば、その先が見えるかもしれない。黒い濁りの向こうに、まだ何かが。まだ、あの人が。
そのとき、廊下の向こうでにわかに空気が変わった。
荒くはないが速い足音。短く鋭い命令。従う者たちの返答。王都仕込みの整った気配が、旧都の混乱した廊下をまっすぐ貫いてくる。侍女たちがはっと顔を上げ、騎士が姿勢を正した。
「……到着なさったのか」
誰かが扉の外で低く呟いた。
次いで、扉が外から叩かれる。
「失礼いたします。王家より、皇太子殿下がお見えです」
室内の空気が固まった。
侍女たちは慌てて身を引き、騎士は膝を折る。セラフィナだけが、寝台の脇で柱へ片手をついたまま動かなかった。驚きはあった。だがそれは喜びではなかった。胸の奥に広がったのは、もっと冷えた何かだった。
来てくれた、とは思わない。来られた、と思った。その違いが自分でも少し悲しかった。
やがて扉が開く。
最初に目に入ったのは、見慣れたはずなのにどこか遠い顔だった。整った面差し。張り詰めた眼差し。旅装の上からでもわかる疲労。長く馬を飛ばしてきたのだろう、外套の裾には乾いた土がついていた。だが、それでも崩れてはいない。崩れることを許されぬ立場の人間の顔だった。
兄——ユリウスは、部屋へ入るなりまずセラフィナの姿を見た。寝台を降り、蒼白な顔で立っている妹の姿を。その瞬間、瞳の奥で何かが揺れたのを、セラフィナは見た気がした。
だが兄はすぐにそれを消した。
「下がれ」
短く言うと、侍女と騎士たちは一礼して退いた。扉が閉まる。部屋にはセラフィナとユリウスだけが残された。
しばし沈黙が落ちた。
やがて兄が、先に口を開いた。
「……ローゼンフェルトのことは聞いている」
その一言で、部屋の空気がまた冷えた気がした。
「旧都での崩落も、奈落へ落ちたことも報告を受けた。王家にとっても痛手だ。お前の護衛としてだけでなく、あれほど忠実で、有能な者はそう多くない」
そこで兄は、ほんの一拍だけ言葉を切った。
「……失ったのが惜しい」
セラフィナは兄を見た。その言葉は間違ってはいないのだろう。けれど、あまりにも遠かった。
「……まだ、そうは思っておりません」
兄の目がわずかに細くなる。
だがその返答には触れず、彼は低く続けた。
「体調はどうだ」
王家の代表としての、整いすぎた声音だった。
セラフィナはわずかに目を細める。
「ご覧の通りです」
兄の視線が、寝台を離れた妹の足元から、柱へ置かれた汚れた手袋をつけた細い指へ、そして痩せた頬へと静かに移る。
「寝ているべきだ」
「旧都がこのような有様で?」
「だからこそだ」
その返答に少し間があった。怒りではなく、疲労が滲んでいた。
ユリウスは目頭を指でつまみながら部屋の中央まで進み、妹から一定の距離を保って立ち止まる。近づきすぎないのは、昔から身についた習いでもあり、今この場ではそれ以上に、互いの間に横たわる長い年月の遠さのせいでもあった。
「王都にも瘴気の波が及び始めている」
兄は告げた。
「旧都だけではない。北の領からも、西の海沿いからも、作物の変色と病の報せが上がっている。まだ軽いものが多いが、これまでになかった広がり方だ」
セラフィナは黙って聞いていた。
「白耀石を城から動かしたことで、押さえられていた流れが乱れた可能性がある」
「……可能性」
「現時点では断定できぬ。だが教会は、すでにもっと短絡的な解釈を始めている」
そこで兄の口調がわずかに硬くなる。
「一つの石で足りぬなら、各地に置けばよいと」
セラフィナはゆっくりと顔を上げた。
「置く?」
「白耀石の加護を各地へ分けろと、一部の聖職者と貴族どもが言い出している」
その言葉を聞いた瞬間、衣の下の魚がひどく嫌がるように身じろぎした。熱とは別の寒気が、背骨に沿って這い上がる。
「分ける……」
思わず零れた声は、掠れてほとんど息のようだった。
城から動かしてはいけなかった石を動かして、王国の地脈に沿って流れていた瘴気が地上に溢れてきている。それを知ってまだそんな愚挙に出ようというのか。
兄はそれに気づいたのか、わずかに眉を寄せる。
「父上は許していない。私も認めるつもりはない。だからこそ、ここへ来た」
「止めるために」
「そうだ」
「私を、ですね」
その言葉に、兄の顔がほんの少しだけ強張った。
セラフィナは柱から手を離し、ふらつく身体をどうにか支えながら兄を見た。目の奥は冷えていた。
「王家の代表として、お兄様はここへいらしたのでしょう。石を守り、教会を抑え、わたしをこれ以上外へ出さないために」
「間違ってはいない」
「では、兄としてはいらしていないのですね」
兄は答えなかった。
その沈黙が、かえって肯定のように胸に落ちた。否定してほしかったわけではない。ただ、少しだけ、迷ってほしかった。
セラフィナは小さく息をする。胸が痛んだ。熱のせいだけではない。
「……そうですか」
そのあまりに薄い声に、ユリウスの目の奥で何かが痛んだように見えた。だが彼はそれを飲み込み、あくまで現実の話を続ける。
「今、旧都で必要なのは混乱を広げぬことだ。お前がまた瘴気だまりへ近づけば、現場はさらに動揺する」
「人が死んでいるのに?」
「わかっている」
「わかっていて、寝ていろと仰るのですね」
「そうだ」
兄はきっぱりと言った。
「今のお前を行かせるわけにはいかぬ」
その断定に、セラフィナの中で何かが冷たく軋んだ。
まただ、と。
また、自分だけが知らされず、自分だけが遠ざけられ、自分だけが従うべきものとして扱われる。
「ではどうするのです」
声は細いのに、言葉だけは鋭かった。
「旧都で人が倒れ、各地でも瘴気が広がり、教会と貴族は石を分けろと言っている。そのあいだわたしはここで寝ていればよいのですか」
「今のお前にできることは限られている」
「限られていると決めるのも、いつもお兄様たちなのですね」
兄の表情がわずかに揺れた。
セラフィナはそれを見ても止まらなかった。
「また塔へ戻して、目の届かぬところへ置いておくおつもりですか」
「違う」
「何が違うのです」
「セラフィナ」
「守るため、と皆そう仰る」
最後の一言だけが、ひどく小さかった。
だがその小ささの方がよほど深く刺さった。
ユリウスは言葉を失ったように黙り込んだ。兄として返すべきか、王家の代表として押し切るべきか、一瞬で判断がつかなかったのだろう。その迷いが、かえってセラフィナには遠かった。
やがて兄が低く問う。
「……誰になにを聞いた」
その声色で、兄はすでに気づいているのだとわかった。自分が何かを知ったことを。王家が伏せてきたことの一端を、誰かから聞かされたことを。
セラフィナは答えなかった。
兄を見つめたまま、ただ静かに息をしている。
それだけで十分だった。ユリウスの目が、ごくわずかに細くなる。誰だ、とさらに問うことはしなかった。問える立場ではないとわかっていたのかもしれない。
沈黙のあと、セラフィナは言った。
「旧都の瘴気だまりを見に行きます」
「ならぬ」
「行かなければ」
「お前にそう何度も力を使わせれば——」
「使わなければ、あれは残ります」
「残るとしても、今のお前が行ってよい理由にはならぬ」
兄の声が少しだけ強くなる。
セラフィナも一歩も引かなかった。
「わたしが行かなければ、誰が止めるのです」
「別の手を考える」
「そのあいだに、あれは広がるわ」
「だからといって」
「——その先に、まだあの方がいるかもしれないのに」
そう口にした瞬間、室内の空気が変わった。
兄が息を呑んだのがわかった。
セラフィナ自身も、そこまで口に出すつもりはなかった。けれど抑えきれなかった。黒い奈落の先に、まだレオニスがいるかもしれない。そのひどく薄い望みが、自分をここまで立たせているのだと、もう隠し切れなかった。




