第16章 白耀石の軋み①
あたたかな陽が、白い石の床に落ちていた。
窓辺に寄せた長椅子の上で、セラフィナはうつらうつらと目を細める。風はやわらかく、薄いレースの幕をわずかに揺らしていた。遠くで鳥が鳴き、どこか下の方では、城の者たちが行き交う気配がかすかに重なる。けれどそれも、この高い塔まで届くころには、すっかり角の取れた穏やかな響きに変わっていた。
膝には開いたままの本がある。少し前まで読んでいたはずなのに、陽射しがあまりにも心地よくて、いつの間にか文字を追うのをやめてしまっていた。
「また寝ておられますね、セラフィナ様」
呆れたような声がして、セラフィナは顔を上げた。
レオニスが、窓際の光の中に立っている。今日は稽古帰りなのか、軽装のままで、額にかかる髪が少しだけ乱れていた。そのくせ声はいつもどおり落ち着いていて、どこか苦笑を含んでいる。
「寝てはいません」
「本が逆さまです」
「……考え事をしていただけです」
言い返すと、レオニスは小さく笑った。
その笑い方があまりにもいつもどおりで、セラフィナもつられて口元をゆるめる。なんだか少し前に嫌なことがあったような気がした。胸の奥に薄い影が引っかかっている。けれどそれが何だったのか、思い出そうとすると霞がかかったように遠のいていく。
ここは静かで、明るくて、あたたかい。
窓の外には青い空があり、白い塔は変わらず高く、レオニスはこうして当然のようにここにいる。
それだけで十分だった。
「今日は風が気持ちいいですね」
「ああ。下よりこちらの方が涼しいですね」
「では、お茶は窓際にしましょうか」
そう言うと、レオニスは一瞬だけ意外そうな顔をしたあと、すぐに目を細めた。
「侍女たちが喜びそうです。セラフィナ様が自分からそう仰るのは珍しい」
「たまには私だって言います」
「知っています」
その返事が、なぜだかくすぐったかった。
やがて運ばれてきた茶器から、やわらかな香りが立ちのぼる。焼き菓子は小さな花の形をしていて、表面に薄く砂糖がかかっていた。セラフィナが指先でひとつ摘まむと、向かいに座ったレオニスが「甘すぎませんか」と真顔で言う。
「いつもそう言いますね」
「事実です」
「では食べなければいいでしょう」
「セラフィナ様が残されたら食べます」
「結局食べるのですね」
「無駄にしないだけです」
あまりに真面目に言うので、セラフィナはとうとう声を立てて笑ってしまった。
笑うと、胸のあたりがふわりと軽くなる。こんなふうに笑ったのは久しぶりな気がした。
――いや、違う。きっと毎日こうだったのだ。穏やかに本を読み、少しだけお茶を飲み、レオニスと他愛のない言葉を交わして、日が傾いていく。何も変わらない、静かな塔の一日。
そう。
ここには何も起きていない。
何も失っていない。
「セラフィナ様」
呼ばれて顔を上げると、レオニスがこちらを見ていた。まっすぐで、静かな眼差しだった。
「どうかされましたか」
「……いいえ」
泣きそうだった理由が、自分でもわからなかった。
ただ、目の前のこの人がここにいることが、ひどく大切で、少しでも目を離すと消えてしまいそうな気がした。そんなはずはないのに。ここは塔で、今日は穏やかで、空は青く、風もやさしいのに。
「外に出ますか?」
レオニスが立ち上がって、窓の向こうを見やる。
「いいわね、白耀石まで行きたいわ」
「今日は階段を嫌だと思わないのですね」
「思っています」
「ではなぜ」
「……あなたが一緒なら」
言ってから恥ずかしくなって、セラフィナは視線を落とした。けれどレオニスは何もからかうことなく、ただごく静かに息をついた。
「参りましょう」
差し出された手は温かく、セラフィナをしっかりと支えてくれる。
そのことに、なぜだかほっとする。
そして同じくらい、少しだけ寂しい。
二人で並んで階段を上る。石段はひんやりとして、塔の中には古い石と風の匂いが満ちている。途中、細い窓から差し込む陽が、レオニスの肩や頬をかすめていった。
「セラフィナ様、疲れておられませんか」
「平気です」
「嘘ですね」
「少しだけです」
「少しなら休みますか」
「でも、もう少しで着くのでしょう」
「ええ」
「なら行きたいです」
レオニスは何も言わず、歩調だけをわずかに緩めた。
そのささやかな気遣いがうれしくて、セラフィナは胸の奥に小さく灯る熱を感じる。階段を上りきれば、塔の上から遠くまで見渡せる。白い雲、青い海、きらめく光。あの日もそうだった。何か大切な言葉を交わした気がするのに、それだけがどうしても思い出せない。
思い出せないままでも、かまわない気がした。
ここにレオニスがいて、自分がいて、空がこんなに明るいのなら。
もう何も望まなくていいような気さえした。
そのとき、どこか遠くで、低い音が鳴った。
鐘――ではない。
もっと重く、深く、世界の底を擦るような音だった。
セラフィナは足を止める。
「……今のは?」
レオニスが振り返る。けれど、その顔が急に遠くなる。差し込んでいたはずの光が薄れ、風の匂いが変わる。あたたかかったはずの指の感触が、するすると冷えていく。
「……待って、だめ」
胸が痛んだ。
何かを思い出しかけた瞬間、心臓を握りつぶされるような苦しさが走る。
違う。
違う。
ここは塔ではない。
「セラフィナ様?」
レオニスが何か言っている。けれど声が聞こえない。顔を見たいのに、もう輪郭が白くほどけはじめている。
嫌だ、とセラフィナは思う。行かないで、と思う。せっかく戻ってきたのに。せっかく、ここにいたのに。
伸ばしかけた手が、空を切る。
その瞬間、世界が砕けた。
目を開けたとたん、冷たい空気が喉に刺さった。
そこは白い塔ではなかった。やわらかな陽射しも、レースの幕も、花の形の焼き菓子もない。重く閉ざされた天蓋の内、薬草と血の名残が混じる匂いだけが、現実のように濃く漂っていた。
胸がひどく痛む。
呼吸をするたび、失ったものを身体の内側から思い知らされるようだった。
夢だったのだ、とわかるまでに少し時間がかかった。
あまりにも幸福で、あまりにも自然で、何ひとつ疑わずに信じてしまうほどに。
レオニスは、あそこにはいない。
その事実はわかった。わかったはずなのに、心がどこかでまだ理解を拒んでいる。泣きたい、とセラフィナは思った。泣いてしまえたら、どれほど楽かわからなかった。けれど喉の奥は硬く塞がれたようで、目の奥ばかりが熱いのに、涙はひとしずくも落ちなかった。
ただ苦しい。
胸の奥に重い石が沈んだように苦しくて、息がうまく吸えない。声を出そうとしても、ひび割れた空気が漏れるだけだった。
泣けない。
泣かなければならないほど悲しいのに、あまりにも大きすぎる悲しみは、涙にさえなってくれない。
セラフィナは動けないまま、天蓋の内側を見つめた。何も見ていないのに、夢の中の光景だけがやけに鮮やかだった。窓辺の陽射し。白い石床。穏やかな声。そこにいたはずの人。
もういないのだと、頭ではわかっている。
それでも心だけが、まだ夢の続きを待っていた。




