第15章 守られていた檻③
第15章③ 守られていた檻
今度は迷う時間の方が長かった。
白い紙を前にしたまま、何も書けない。
書きたい相手は、はっきりしているのに。
レオニス様へ。
そう記した瞬間、胸の奥がひどく静かに痛んだ。見慣れた名前なのに、いま紙の上へ置くと、まるで遠いもののように見える。
何を書けばいいのだろう。
生きていてくださいと?
見つけに行きますと?
待っていてくださいと?
どれも違う気がした。
どれも、今の自分には重すぎた。
セラフィナは筆を持ったまま、長く動けなかった。
言葉にした途端、本当にいないと知ってしまいそうで怖かった。
逆に、どこかで生きているかもしれないという、薄い、薄い願いまで壊してしまいそうで。
やがて、ようやく一行だけ書く。
あなたが、まだどこかにおられるのなら──
そこで筆が止まった。
その先が続かない。
見つけに行きます、と書こうとして、手が震える。
必ず、と書けるほど自分の身体は保たない。
どうか生きていて、と書こうとして、それが祈りになってしまうのが苦しかった。
結局、何も続けられなかった。
紙の上には、名前と、短い一文だけが残る。
あまりにも頼りなく、途中で折れた糸のような文字だった。
セラフィナはしばらくその紙を見つめていたが、やがてそっと伏せた。捨てることも、破ることもできない。ただ誰にも見られないよう、家族宛ての紙の下へ重ねる。
そのとき、扉の外で慌ただしい足音がした。
誰かが低く報告している。鐘楼下で新たな崩れがあったのだと、聞き取れないほどの声でもわかった。旧都は待ってくれない。真実を知っても、傷は消えない。書き置きを残したところで、現実がやわらぐこともない。
セラフィナは手紙の上に細い指を置いたまま、目を閉じた。
家族へは、言葉を残せた。
レオニスへは、残せなかった。
それが今の自分なのだろうと思う。
家族には遅すぎる真実への痛みを書けても、あの人へはまだ、何ひとつ言葉にできない。いなくなったと認めることも、生きていると信じ切ることも、どちらもできないからだ。
衣の下で魚が小さく動いた。
まるで、行くなと言うように。
あるいは、急ぐなと縋るように。
セラフィナはそっとそこへ手を当てる。
「……ごめんなさい」
誰への謝罪なのか、自分でもわからなかった。
魚へか。
マルタへか。
家族へか。
それとも、まだどこかにいるかもしれないレオニスへか。
答えはない。
窓の外では、朝の色がもう昼へ傾き始めていた。旧都に差す光は白く薄く、少しもあたたかくない。遠くでまた鐘が鳴る。一定ではない、乱れた音だった。祈りのための鐘ではなく、災厄を告げるための鐘だ。
セラフィナはその音を聞きながら、ゆっくりと息を吸った。
守られていたのだとしても。
閉じ込められていたのだとしても。
いまさら過去は変わらない。
けれど、あの奈落を消せたなら。
瘴気を祓いきれたなら。
その先に、あの人が残っているかもしれない。
ひどく薄い望みだった。
それでも、ないよりはましだった。
完全に空になってしまわないための、最後のかけらのようなものだった。セラフィナが瞼を閉じれば、瘴気の下で倒れているレオニスが浮かんでしまう。
まだ、間に合うかもしれない。
だから行く。
怖い、と思う。思いながら、それでも足が動く準備をしている。
怖さと決意が同じ場所にある、ということを、セラフィナは初めて知った。
誰に命じられたからでもなく。
誰に期待されたからでもなく。
ただ、自分の意思で。
あの奈落を消す。
瘴気を消す。
ひとかけらも残さず。
その果てに自分が尽きるのだとしても、もう惜しいとは思えなかった。
それでももし、黒の向こうにまだレオニスがいるのなら。
この手で見つけたいと、そう思った。
セラフィナは静かに目を開けた。
熱はまだ下がらず、身体はひどく重い。まともに立てば、そのまま崩れ落ちるかもしれない。だが心だけが奇妙に澄んでいた。
小卓の上の二通の紙を見つめる。
ひとつは、ようやく残せた言葉。
もうひとつは、言い切れなかった願い。
それらを置いたまま、セラフィナはゆっくりと寝台の縁へ足を下ろした。
次に倒れるのが、自分であってもかまわない。
だがその前に、あの黒へ辿り着かなければならない。
鐘はなおも鳴り続けていた。
まるで旧都の傷が、空そのものを打っているかのように。




