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第15章 守られていた檻②

 

 右手が無意識に胸元を探る。

 魚は熱を持って静かにそこにいた。昨日よりも動きが鈍い気がした。ひどく疲れているのだろうか。それとも、自分の消耗に引きずられているのか。深碧に銀が滲む色だと言われても、今のセラフィナには見えない。見えるのはいつだって、瘴気に灼かれて黒ずんでいく姿ばかりだった。


「……あなたも」


 掠れた声が、誰に向けたものともなく零れる。


「苦しいの」


 返事はない。ただ衣の下で、魚がひどく弱々しく身をよじった。


 それを感じた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。今までこの魚へ向けてきた憎しみや嫌悪が、一度に消えるわけではない。けれど、少なくとも昨日の朝までのように、ただ呪いだと思うことはもうできなかった。


 守ろうとしていたのなら。

 自分を守るために壊れたのだとしたら。


 その代償を払わされてきたのは、結局、自分だけではなかったのかもしれない。


 しばらくして、廊下が再び騒がしくなった。

 重い足音。短い命令。誰かが強く制止する声。

 そのあと、扉が叩かれる。


「姫殿下。失礼いたします」


 入ってきたのは、旧都まで同行している王城の騎士の一人だった。年嵩で、広場でも何度か目にした男だ。普段は抑制の利いた人物だが、今は顔色が悪い。


「……何」

「お休みのところ申し訳ございません。ご報告だけでもと」

「言って」


 騎士は一瞬視線を伏せた。

 それから、できるだけ事務的に告げた。


「鐘楼下の裂け目が、昨夜より広がっています。旧都の北側で新たな瘴気溜まりが確認され、倒れる者も増えました」


「……そう」


「現在は神官どもが白耀石の安置位置を変えるだの、結界を組み直すだの申しておりますが、どれも決定打にはなっておりません」


 最後の言葉だけ、少し棘があった。教会への不信が隠しきれなかったのだろう。


「それで」

「……それで、聖環教会の者どもは」

 騎士は言いにくそうに顎を引く。

「姫殿下のお力を、もう一度お借りしたいと」


 セラフィナは薄く目を伏せた。

 やはり、と思った。

 怒りも失望も湧かなかった。ただ、胸の底であの黒い感情が静かに揺れた。


 あれを消したい。


 誰に言われるからでもなく、そう思う。

 役目だからでも、祈りだからでもない。

 ただ、あれが憎いから。


 そして、あれの向こうに、まだレオニスがいるかもしれないから。


 騎士は続けた。


「もちろん、陛下からのご命令は変わっておりません。何より優先すべきは姫殿下のご生存です。ですので我らは──」

「止めるのね」

「……はい」


 その一瞬の沈黙が、ひどく正直だった。


 止める。

 だが、それでも本心では望んでいる。

 自分に行ってほしいと。

 この惨状を少しでもどうにかしてほしいと。


 責める気にはなれなかった。そう思ってしまうほど、旧都はもう追い詰められているのだろう。倒れる民の顔を見てしまえば、なおさら。


 騎士は苦い顔で言った。


「ですが、申し上げておかねばなりません。姫殿下。広場にいた者どもの多くは……あなた様がもう一度立ってくださればと、そう願っています」

「そう」

「それでも私は、あなた様に無理をしていただきたくはない」


 その言葉は不器用だった。レオニスのように迷いなく言い切るものではない。責務と現実の狭間で、それでもどうにか人として言葉を選んでいる声だった。


 セラフィナはその騎士を見た。苦しそうな顔をしていた。


「……あなたは、正直なのね」

「隠しても意味がございません」

 騎士は低く答えた。

「この街は今、誰もが綺麗ごとだけでは立っておれぬ場所です」


 その通りだった。

 綺麗ごとだけでは立っていられない。

 だからこそ、自分の中の憎しみは都合がよかった。


 瘴気が憎い。

 奈落が憎い。

 レオニスを奪ったあの黒を、消したい。


 理由としては十分だった。


「……下がって」

「姫殿下」

「今は、一人にして」


 騎士はなお何か言いたげだったが、結局一礼して部屋を出た。


 扉が閉まる。

 静寂が戻る。


 その静けさの中で、セラフィナはしばらく天井を見ていた。やがて、ひどくゆっくりと腕を持ち上げ、枕元の小卓へ視線を落とす。そこには薬湯の他に、侍女が置いていった便箋と細い筆があった。旧都へ着いてから、必要な記録や報告のために常に備えられているものだ。


 何気なく置かれていたそれが、今は妙に目についた。


 行くのなら、何か残すべきなのかもしれない。


 その考えが胸へ落ちてくる。


 死ぬつもりなのかと問われれば、そうではなかった。

 そうではないはずだった。

 瘴気を祓った先に、まだレオニスがいるかもしれない。傷ついて、倒れて、ただ見つけられていないだけかもしれない。そんなほとんど形にもならない期待を、まだ捨てきれていない。


 けれど、それでも。


 もし自分が戻れなかったなら。


 そこまで考えて、セラフィナは手を止めた。

 戻れなかったなら——その言葉の先に、レオニスの顔が浮かんだ。

 奈落の底へ消えた人。もう戻らないかもしれない人。

 それでも、まだどこかにいるかもしれないと思ってしまう人。


 死んでもいいと思っていたはずなのに、その顔が浮かぶたびに、胸の奥で何かが揺れた。

 わからない。

 ただ、もう少しだけ、と思った。


 セラフィナは息を整え、痛む身体を引きずるようにして半身を起こした。たちまち視界が揺れ、胸の奥で鈍い痛みが跳ねる。それでも小卓へ手を伸ばし、紙を一枚引き寄せた。


 最初の一筆が、なかなか浮かばなかった。


 誰に向けて書くのか。何を書くのか。

 考えるまでもないはずなのに、筆先はわずかに震えた。


 やがて、家族へ宛てる形で書き始める。


 お父様、お母様、お兄様、お姉様へ──


 書き出した文字は、自分でも驚くほどかすれていた。熱のせいだけではないのだろう。何を書けばいいのかわからなかった。


 真実を知りました、と書く。

 洗礼の夜のことを。

 自分に触れれば死ぬのが相手ではなく、自分だと知ったことを。

 マルタが来て、それを聞いたことを。


 そこまで書いて、しばらく筆が止まった。


 責めるべきなのか。

 礼を言うべきなのか。

 許すべきなのか。


 どれも違う気がした。


 セラフィナは浅く息をつき、改めて筆を動かした。


 わたしは、知らぬままでおりました。

 知らされなかったことを、すぐに受け入れることはできません。

 守るためであったのだとしても、あの孤独がなくなるわけではございません。

 けれど、疎まれていたのではないのかもしれないと知りました。


 そこまで書いて、胸が詰まる。

 喉の奥が熱く痛んだ。咳をこらえ、少しだけ目を閉じる。


 母を責めたいわけではない。

 今さら優しかったのだと縋りたいわけでもない。

 けれど、自分はたしかに寒かったのだと、それだけは消してほしくなかった。


 わたしは、寂しかったのです。


 その一文を書きつけたとき、指先がひどく冷えた。

 書いてしまった、と思った。十七年間、一度も言葉にしてこなかったものが、今は紙の上にある。


 続けて、ひどくためらった末に、もう一行だけ加える。


 それでも、知ることができてよかったと思います。


 きれいな和解ではなかった。

 赦しでもなかった。

 ただ、それが今の自分に書ける限界だった。


 最後に、もし戻れなかったなら、どうか旧都の民をお守りください、騎士たちに咎をお与えにならないでください。そう記し、セラフィナは筆を置いた。たったそれだけの文なのに、息が乱れ、肩が重く沈む。紙を折ることさえすぐにはできなかった。


 しばらくして、もう一枚の便箋へ手を伸ばす。


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