第15章 守られていた檻①
夜のあいだ、セラフィナはほとんど眠れなかった。
熱に浮かされて意識が沈みかけても、すぐに何かに引き戻される。旧都のどこかで絶えず打たれている警鐘だった。崩れた鐘楼の下で、なお鳴りやまぬその響きは、薄い壁を抜け、胸の奥まで届いてくる。まるで街そのものが、途切れず苦しみ続けている吐息のようだった。
目を閉じれば、黒い裂け目が見えた。
あの奈落へ吸い込まれていった瞳も。
伸ばせなかった手も。
そのたびに胸の奥が鈍く引き攣れた。泣きたくはならなかった。ただ何かが、内側で音もなく削れていくようだった。
寝台の上で、セラフィナは浅い息を繰り返した。喉はまだ焼けるように痛み、胸の底には重い石が沈んでいる。咳をすれば血の味が上がってくるのがわかっていたから、なるべく細く息をした。だが、それでも苦しさは少しも薄れなかった。
右手を胸へ当てる。
衣の下で魚がかすかに動いた。
昨日、自分は初めて知ったのだ。
これが呪いではなかったかもしれないことを。
穢れではなく、守ろうとしていたものだったかもしれないことを。
それなのに、胸は軽くならなかった。
守られていた。
その言葉は少しも優しくなかった。胸に広がるのは喜びなんかではなく、ただ虚しさだけだ。
守られていたのなら、あの孤独は何だったのだろう。
その問いに答えは出ない。出ないのに、止まらない。水が低いところへ流れるように、思考はいつも同じ場所へ戻ってくる。
誰も触れてはならないと囁かれ、誰も本当のことを教えてくれず、遠巻きに見られ、恐れられ、白耀の塔へ閉じ込められてきた日々は。あれが全部、自分を生かすためだったとしても、あまりにもセラフィナには残酷だった。
──どうか、生きていてくださいませ。
昨夜、マルタに言われた言葉が不意に蘇る。
ただ生きていてほしい、と。
役目でも奇跡でもなく、ただ命そのものを惜しむように。
その言葉だけが、熱に曇った意識の中でも異様に鮮やかだった。
鮮やかで、それゆえに痛かった。
レオニス……
思い出した瞬間、息が浅く止まる。
いない。
もう、いない。
布越しに触れる大きな手も、優しいまなざしも、冷たく見える鼻梁も、鋭く引かれた横顔も。
見ることができなくなってから、そうしたものばかりが今さら色鮮やかに思い起こされた。
二夜を越えても、その不在は少しも薄れなかった。
夢であれば良いのにと思うほど、旧都で起きたことは現実味がない。いつかこの夢が突然覚めて、またあの白い塔の中で、レオニスがもう時間ですと呼びに来る。そんな日々がまたやってくることなんて、もうないのに。
なにも変わらないまま、窓の向こうの空だけがゆっくりと白んでいく。
やがて扉の外で人の動く気配が増え始めた。侍女たちの低い声、湯を運ぶ音、騎士たちの靴音。旧都の朝は、誰にとっても安らかなものではないらしい。短く切れた報告の声が廊下を行き交うたび、街のどこかでまた何かが起きているのだとわかった。
「……姫様、お目覚めでいらっしゃいますか」
控えめな声とともに、若い侍女が寝台のそばへ寄ってきた。見慣れた顔だったが、その目の下には濃い疲れが落ちていた。昨夜もほとんど眠れていないのだろう。
セラフィナはうっすら目を開ける。
「……何か、あったの」
侍女は一瞬ためらった。すぐには答えず、盆を置く手つきばかりを整えている。そこにもう答えがあった。何もなければ、そんな顔はしない。
「広場の方で……また倒れた方が」
「瘴気?」
「はい。鐘楼の下から流れる濁りが、夜のうちに少し広がったようで……弱った方が数人、昨夜のうちに命を落としたとも聞いております」
侍女の声は沈んでいた。責める響きはない。ただ疲れ切った現実だけがある。
「白耀石は」
「昨夜は持ちこたえたそうです。でも、今朝は光が弱いと……神官様方が」
そこまで言って、彼女ははっと口をつぐんだ。余計なことを言ったと気づいたのだろう。セラフィナは閉じかけた目で天井を見たまま、小さく息をした。
神官たちが何を言っているのかくらい、聞かなくてもわかる。
姫の力が要る、と。
またあの場所へ行かなければならない、と。
熱で鈍った頭の底で、黒い感情だけが妙にはっきりしていた。
あれを消したい。
瘴気を。
裂け目を。
鐘楼の下に口を開けた奈落を。
あれがあるかぎり、誰かが倒れる。誰かが奪われる。そしてもう二度と戻らない。
あれがレオニスを奪った。
けれど、それだけではなかった。
もしあの黒を祓いきることができたなら。
もし、奈落の底に沈んだ瘴気が薄れたなら。
もしかしたらその先に、まだ何かが残っているかもしれない。
倒れたまま。
傷ついたまま。
息も絶え絶えのまま。
どこかで、まだ。
そんなものは希望と呼ぶほどのものでもなかった。形にもならない、ひどく薄い願いだった。冷えた灰の下に残った、消えかけの火のようなもの。けれど完全には消えていなかった。
レオニスは、まだいるかもしれない。
そう思った瞬間、胸がわずかに痛んだ。痛みなのか、縋りつくような願いなのか、自分でもわからなかった。
そこまで思いかけて、咳がこみ上げた。
喉の奥が裂けるように痛み、身を折る。侍女が慌てて布を差し出し、背へ手を添えかけて、寸前で止めた。布越しとはいえ、どこまで触れてよいのか迷ったのだろう。そのためらいが、ひどく小さな動きでありながら妙に胸に刺さった。
セラフィナは布を受け取り、口元を押さえた。
また赤が滲む。
「申し訳ございません……お医者が」
「いいの」
声は思った以上にかすれていた。
「……平気」
平気なはずがないと、侍女の顔が言っていた。だが彼女はそれ以上何も言わなかった。
部屋の中へ朝の光が少しずつ差し込んでくる。白い。冷たい。病人の顔色を隠してはくれない色だった。
侍女が薬湯を勧めたが、セラフィナは半分ほどしか飲めなかった。喉を通るたびに熱い痛みが走る。飲み下したものが身体のどこへ落ちていくのかさえ、よくわからなかった。
やがて侍女が下がり、部屋に一人きりの時間ができると、静けさはいっそう濃くなった。その静けさの中で、昨夜の言葉だけが残る。
守るためだった。
遠ざけるためだった。
知らされなかったのも、閉じ込められたのも、全部。
守られていたのだとしても、それは檻だった。
愛の形だったのかもしれない。けれど、檻は檻だ。そこにいた間の寒さも、痛みも、悲しみも孤独も。なかったことにはならない。
セラフィナは目を細めた。天井の白がにじむ。
王妃の顔を思い出そうとした。けれど浮かぶのは、いつも遠くから笑みを貼りつけたまま見下ろしていた冷たい表情ばかりだ。その奥にどれほどの恐れや苦しみがあったのか、今さら想像することはできても、理解が追いつくことはない。
許したいわけではなかった。
責めたいわけでもない。
ただ、遅すぎると思った。
何もかも。
真実も、優しさも、後から来るには遅すぎた。




