第14章 禁儀の夜③
セラフィナは、その言葉を聞いてもすぐには驚けなかった。あまりに大きすぎて、心が理解を拒んだのだろう。
触れれば、相手が死ぬのではない。自分が死ぬ。
その真実が、熱に浮いた頭の中へゆっくりと沈んでいく。いままでの恐れが、少しずつ形を変えていく。塔で差し出された手袋。家族の距離。周囲の視線。何もかもが、違う意味を持ち始める。だがまだ、そこから先へ考えを伸ばす力はなかった。
衝撃だけが遅れて胸へ届いた。息が、止まった。止まったまま、次が来ない。肺が動くのを忘れたみたいに、ただ胸の中央だけが重かった。ようやく息を吸えたのは、魚が強く跳ねたからだった。まるで、早く呼吸しろと急かすように。
「どうして……」
それ以上、言葉が続かない。
マルタは唇を震わせた。
「教えれば、あなた様がご自分を責めてしまわれると案じられたのでしょう。それに……もし、触れられて命を落とすのが姫様ご自身だと知れ渡れば、姫様がみずから死を選んでしまわれるやもしれぬ。あるいは畏れた者どもが、姫様を災いの種として害そうとするやもしれぬ。ですから王家は……いえ、少なくとも王妃様は、人を遠ざけるほかないとお考えになったのでしょう。姫様の素肌に触れれば、その者が死ぬのだと──そう思わせるしか、守るすべがなかったのだと」
彼女は俯いた。
「けれど、少なくとも王妃様は、あなたを疎んでおられたのではない。それだけは、どうしてもお伝えしたかったのです」
セラフィナは目を閉じた。真実を知ったのに、少しも軽くならない。むしろ別の重さが胸へ積もる。知らなかったこと、知らされなかったこと、その全部がいまさら刃になって戻ってくる。
「……今さら」
ようやく零れた言葉は、酷く小さかった。
「今さら、知って……どうなるの」
マルタはすぐには答えられなかった。やがて震える手で寝台の端を掴む。
「変わらぬことも多うございましょう。けれど、姫様」
その呼びかけは、王家の姫という役目へ向けるものではなく、セラフィナ自身に発せられた。
「どうか、生きていてくださいませ」
セラフィナは目を開けた。
「御身が何であろうと、何を背負っておられようと……あなた様には、生きていていただきたいのです」
その言葉は、セラフィナにはひどく重たかった。
生きていてほしい。
それは今のセラフィナにとって、最も遠い願いのはずだった。
教会は力を求め、騎士は王命に従い、民は救いを願う。そのどれもが「役目」を中心にしている。だがこの人は違った。ただ、生きていてほしいと言う。何の役にも立たなくても。何も清められなくても。ただこの命そのものを惜しむように。
胸の奥で、何かがひどく静かに痛んだ。レオニス以外に、そんなふうに言われた記憶がほとんどなかったからだ。生きていてほしい、と言われるのが、こんなにも重いとは知らなかった。役に立てと言われる方が、余程ずっと軽かった。
マルタはなおも涙を流しながら、深く頭を垂れる。
「お許しください。お傍にいられなかったことも、今になって現れたことも」
セラフィナは首を振ろうとした。だがうまく動かない。熱のせいか、胸のせいか、自分でもわからなかった。
外ではまた鐘が鳴っていた。旧都の現実は何ひとつ止まっていない。教会も、奈落も、瘴気も、レオニスのいない世界も、何もセラフィナに優しくなってはいない。それでも今、初めて知ったことがある。魚は最初から呪いではなかったのかもしれない。母は本当は自分を遠ざけたかったのではないのかもしれない。
それは光のようでもあり、刃のようでもあった。
マルタが下がったあと、セラフィナは長いあいだ黙っていた。入れ替わりに戻ってきた侍女も騎士たちも気を遣って声をかけなかった。
シリルの姿はその中になかった。ふと、その名前が胸に引っかかった。
塔にいた頃から、あの人はいつも同じことを言っていた。選ばれた者の孤独。苦しみの意味。役目を与えられた者の尊さ。
旧都へ来てからも、変わらなかった。
「あなたにしかできない」「苦しみには意味がある」「見過ごすことは罪だ」。
言葉は毎回違う。けれど、どれも同じ方向を向いていた。
前へ。役目へ。痛みの中へ。
セラフィナを止める言葉は、あの人の口から一度も出たことがなかった。怖がらない人間は、二種類いる。怖くないから近づく者と、怖くないふりをして近づく者。レオニスは前者だった。シリルは、どちらだろう。答えが出る前に、咳が来た。
静けさの中で、セラフィナはそっと右手を胸の上に置く。衣の下で魚が鈍く動く。熱を持ち、苦しそうで、それでも確かにそこにいる。
穢れているのだと思っていた。自分の中へ入り込んだ、禍々しいものだと。けれど違ったのかもしれない。守ろうとしてくれていたなんて。
『ごめんなさい』
声には出さず、心の中だけでそう言った。魚は答えなかった。ただ、ひどく疲れたように、ゆっくりと胸の下を泳いだ。
夕刻が近づくころ、扉の外でまた慌ただしい足音がした。鐘楼下で新たな崩れがあったのだと、誰かが低く告げている。旧都は待ってくれない。真実を知っても、傷は消えない。レオニスは戻らない。
セラフィナは寝台の上で目を閉じた。知ったことで、むしろ冷たい現実がいっそう鮮明になっただけだった。
自分はただの呪い姫ではないのかもしれない。けれど、それが何になるのだろう。旧都は壊れ続け、あの人はいない。そして鐘楼の下には、あの黒い闇がまだ生きている。
あれが憎かった。レオニスを呑み込んだ瘴気の奈落が。この世にあれがあるかぎり、また誰かを奪う。
ならば、あれを消し去るしかない。
ひとかけらも残さず。
その果てに自分が尽きるのだとしても、もう惜しいとは思えなかった。
窓の外では、夜の気配がゆっくり降り始めていた。だが旧都の鐘は、その暗さよりも先に、絶えず空を打ち続けていた。




