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第14章 禁儀の夜②

 

「……客?」


「ええ。どうしても姫殿下にお会いしたいと、頑として聞かれません」


 こんな場所に、こんな時に、自分へ会いたいと言ってくる者などいるのだろうか。教会の人間か、それとも旧都の民か。どちらでも気が重かった。

 ややあって扉の向こうから、騎士の困惑した声が届いた。


「だから、名乗りだけでは通せぬと言っている!」

「お願いでございます、どうか……一目だけでよいのです」


 女の声だった。年かさの、それでもよく通る声。必死さに震えている。


「姫様に、どうしてもお伝えしなければならないことが……」

「姫殿下だ」

「……フィナ様に」


 その名を聞いた瞬間、セラフィナは息を止めた。

 フィナ。


 それは、もう誰も呼ばない名だった。白耀の塔へ上がるより前、もっとずっと幼いころにだけ、そっと囁かれていた名。今、それを知っている者がいるはずがなかった。


「……通して」


 自分でも驚くほど早く、言葉が口をついていた。


 騎士たちはためらった。重い沈黙ののち、扉がゆっくりと開いた。


 入ってきた女は、年老いていた。髪には白いものが混じり、旅の埃をかぶった外套は質素だった。王宮に仕える者の身なりではない。頬もこけ、長い年月の重みから元の人相を伺い知ることは出来ない。


 セラフィナはその顔を見ても、すぐには誰だかわからなかった。

 けれどその人は、部屋へ一歩入った瞬間、泣き出しそうな顔で立ち尽くした。


「……フィナ様」


 その呼び方だけが、やけに懐かしかった。顔ではなく、声でもなく、呼ばれた時に胸の奥へ落ちる感触だけが、遠い昔の何かを揺らした。


 女は震える手を胸元へ押し当てた。


「熱をお出しになると、いつも右の手をお胸へ隠しておられましたね。誰にも見せたくないものがあるみたいに」

 セラフィナは目を見開いた。

「お眠りになる前には、窓辺の灯りが消えるまで、三つ数えなければ嫌だと泣かれました。歩けるようになったころも、転ぶたびに泣く前に、まず右のお手々を隠しておられた。王妃様がお忙しい夜は、わたくしが……古い海の歌をお聞かせして」


 そこまで聞いて、ようやく記憶の奥に埋もれていた感触が形を持つ。膝の上のぬくもり。ゆるやかな子守歌。自分の髪を梳く、手袋越しの指先。


「……あなた」

 声が掠れた。

「……そばにいた人、なの」


 女はもうこらえきれず、涙をこぼした。


「はい。マルタと申します。ほんの二つになる頃までではございましたけれど……幼い頃、お傍におりました」


 名前を聞いても、すぐにはぴんとこなかった。あまりに長いあいだ呼ばず、呼ばれずにいたせいだろう。だが、胸の奥に残っていた断片は確かにこの人へつながっていた。セラフィナはその人を見つめたまま、ただ小さく息をする。


 騎士たちも侍女たちも、完全には事情を掴めずにいるようだった。シリルだけがわずかに目を細めて成り行きを見ている。

 その視線が気に障る。理由はわからない。邪魔をしているわけでも、口を挟んでいるわけでもない。ただ見ているだけなのに。見ているだけだから、気に障るのかもしれない。


 セラフィナは小さく言った。


「……皆、下がって」


 侍女がためらい、騎士も動かなかった。シリルは一瞬だけセラフィナを見たが、やがて静かに一礼する。


「承知いたしました」


 彼が出ると、侍女と騎士たちも渋々あとに続いた。扉が閉まり、室内にはセラフィナとマルタだけが残される。


「どうして、今」


 ようやく出た問いは、責めるつもりのない、ただひどく疲れた声だった。


 マルタは深く頭を垂れた。


「旧都へ姫様が来ておられると聞きました。鐘楼が崩れ、姫様が血を吐いてまで瘴気に触れたと……聞いて、もう居ても立ってもいられず」


 そこで一度言葉を切り、震える息を継ぐ。


「申し訳ございません。もっと早くに参るべきでした。けれど、わたくしは……あの夜のことを知った者として、王宮にはいられなくなりました」


 あの夜。


 言われなくても、何の話なのか肌が先に感じ取った。衣の下の魚がかすかに身じろぎする。セラフィナは無意識に右手を押さえた。


「洗礼の夜、でございます」


 マルタは声を落とした。


「あなたがお生まれになって、ひと月ほど経った頃でございました。祝福のため、清めのためと申して、聖環教会の者たちが参りました」


 セラフィナの呼吸が浅くなる。ずっと知らされてこなかった何かが、ようやくこちらへ手を伸ばしてくる気配があった。


「わたくしは、見ました。生まれた時からあなたの肌にいた魚を。深い海のような青緑に、銀が滲む……綺麗な魚でした。恐ろしいものなどでは、決して」


 マルタは唇を噛んだ。


「けれど、あの方々は怯えました。穢れだと。禍々しいものが王女の身に巣食っているのだと。そう決めつけて、剥がそうとしたのです。削ごうと、焼こうと……」


 セラフィナの喉からひゅっと小さく音が鳴る。


「刃が、赤子の柔らかな肌へ差し込まれようとした、その瞬間でした。室内の何かが弾けたのです。空気が裂け、この世の理そのものが、ひどく歪んだように思えました」


 マルタは目じりに涙をため、悔しそうに言葉を紡ぐ。


「再び神官が刃を振り上げたそのとき、声がしたのです」


 彼女は両手を強く握りしめた。


「どこから聞こえたのかはわかりません。けれど、はっきりと。『この子に触ってはならない』と。『この子の素肌に触れれば、この子の命を奪うと心得よ』──あれほど恐ろしいのに、あれほど切実な声を、わたくしは今も忘れられません」


 彼女の瞳から、瞬きとともに涙が落ちる。


「次の瞬間、魚はあなたの肌の上を激しく走り回りました。守ろうとしていたのです。あの小さなお身体を。けれど、それから……何かが変わってしまった」


 セラフィナは喉の奥で息を詰めた。衣の下の魚が、痛みではなく別の熱を返してくる。今までずっと、呪いだと思っていた。穢れで、自分に巣食うものだと思っていた。それが最初は自分を守ろうとしていた?

 そんなことを、信じていいのだろうか。


 マルタはさらに低く続けた。


「そして、あの場にいた神官たちは、翌朝にはその夜のことを覚えておりませんでした」


 セラフィナははっと顔を上げた。


「……覚えて、いない?」


「はい。怯えて口をつぐんだのではございません。本当に、失っていたのです。刃を向けたことも、声を聞いたことも、魚が走ったことも。だから教会に残ったのは、姫様の身に異様なものがあった、という歪んだ怯えだけだったのでしょう」


 その言葉に、何かが腑に落ちた気がした。

 真実そのものではなく、真実を失った恐怖だけが残り、それが何年もかけて噂と信仰を歪ませていったのだとしたら。


「王妃様は、あなたを恐れたのではございません」


 マルタは泣きながら首を振る。


「守ろうとなさったのです。けれど……壊れかけてもおられました」


 セラフィナは目を上げた。

 マルタは続ける。


「洗礼の夜のあともしばらく、わたくしはお傍におりました。あなた様を抱き、あやし、熱を測り、眠りへ誘う役目を続けておりました。けれど王妃様は、日に日にお苦しそうになっていかれたのです。ご自分では触れられない。泣く子に乳房も与えられない。誰かが布越しに触れるたび、何かあればと恐ろしくてならない。そういうお顔で、いつもあなた様を見ておられました」


 ひとつ息を呑み、声をさらに低くする。


「あなた様が二つになられる頃、いつものようにわたくしが抱き上げようとしたときでした。王妃様はひどく取り乱されました。離して、と。触れさせてはならない、と。あのときの王妃様は……ひどく錯乱され、もはや何を恐れておられるのか、ご自分でもわからなくなっておいででした」


 セラフィナはじっと聞いていた。胸の中で、知らなかった母の姿が少しずつ形を持つ。冷たい人ではなく、怖れて、取り乱し、それでも遠ざけるしかなかった人の姿が。


「そのあと、わたくしは下がるよう命じられました」

 マルタは俯いた。


「最初は、ただ捨てられたのだと思いました。けれど後になってわかったのです。行き先も、路銀も、名を変える手立ても、すべて整えられておりました。王妃様は……あの場にわたくしを置いておけなかったのでしょう。ご自分の目の前であなた様に触れる者を見ることに耐えられず、同時に、教会からも遠ざけたかったのだと思います」


 それは慰めにはならなかった。むしろ別の痛みを呼び起こした。守るためだった。遠ざけるしかなかった。なら、自分が受け取ってきた冷たさは何だったのか。愛があったというのなら、どうして誰も教えてくれなかったのか。

 どうして自分だけ、何も知らぬまま呪い姫として生きてきたのか。


「……死ぬのは」


 セラフィナはようやく声を絞り出した。


「触れた相手では、ないの」


 部屋が静まる。

 マルタは涙に濡れた目で、セラフィナをまっすぐ見た。


「はい」


 その答えは容赦がなかった。


「触れて命を落とすのは、姫様の方です」


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