第14章 禁儀の夜①
結局、奈落に近づくことは全力で阻止され、その日の昼過ぎには、セラフィナはもう起き上がれなくなっていた。
朝の広場から戻った直後は、まだ歩いていた。侍女と騎士に囲まれながら白耀石と共に広間まで戻り、そこでようやく足元が崩れた。咳は止まらず、押さえた布へ何度も赤が滲んだ。熱も上がったのだろう。
頬の火照りと裏腹に手足は冷え、寝台へ運ばれるころには意識さえ途切れがちになっていた。
それでも最初のうちは、何度も起きようとした。
「……まだ、広場に……」
掠れた声でそう言って身を起こしかけるたび、侍女たちが泣きそうな顔で押しとどめる。
騎士たちも寝台のある部屋の外へ交代で立ち、今度こそセラフィナを外へ出さぬよう見張っていた。
昨夜まで、命令と焦りの間で揺れていた彼らも、今ばかりは強硬だった。これ以上動かせば、本当に死ぬかもしれない。その現実が、ようやく誰の目にも明らかになっていた。
だが、教会側は違った。
扉の外では、老司祭と騎士たちの押し殺した言い争いが絶え間なく続いていた。白耀石だけでは広場を抑えきれないこと、鐘楼周辺の瘴気溜まりがまた増えていること、避難した民の中に新たな発熱と痙攣する者が出ていること。
状況が悪化している以上、姫の力を借りるしかない──そういう理屈を、聖職者たちは繰り返しているのだろう。はっきりと聞き取れなくてもわかった。
セラフィナは寝台の上で目を閉じた。
別に、休ませてくれなくてもいいのに。そう思いながら右手でぎゅっと胸を押さえた。
目を閉じたところで休まるわけではなかった。胸はずっと鈍く痛み、喉の奥には焼けた鉄の味が残っている。右手の傷もまだ熱を持ち、衣の下では魚が絶えず動いていた。以前なら耐えられないほどの痛みのはずなのに、今はそれさえ遠い。もっと大きな痛みが、胸の真ん中に静かに居座っているせいだった。
レオニスがいない。
その事実だけが、熱に浮かされても消えなかった。
扉が静かに開いたのは、午後もかなり傾いてからだった。侍女が小さく身を引く気配がする。足音は軽い。誰が入ってきたのか、目を開けなくてもわかった。
「お加減はいかがですか、姫殿下」
シリルの声だった。やわらかく、どこまでも乱れのない声。昨夜も今朝も崩れた広場に立っていたはずなのに、この男だけは不思議なほど整ったままでいる。不自然なほど整っているから、怖い。乱れていれば、まだ人に見えた。
セラフィナは返事をしなかった。喉が痛むのもあったし、それ以上に、今はこの声を聞きたくなかった。シリルはそれでも構わず、寝台の少し離れたところで足を止める。
「旧都は、まだ苦しんでおります」
低く落ちる言葉には責める色はなかった。祈りにも似た穏やかさがある。だからこそ逃げ場がない。
「鐘楼の下の裂け目は閉じず、白耀石の光も朝ほどの強さを保てておりません。民は怯え、騎士たちは疲弊し、神官たちもまた、何を支えに祈ればよいのかわからずにおります」
セラフィナは物憂げに目を開けた。天井は白く霞んで見えた。
「……だから、わたしに行けと?」
「そのようなことは申しません」
シリルは静かに答えた。
「今のお身体では、誰であってもお止めするでしょう。ただ、あなたにしかできぬことがあるのも事実です」
少し間を置いて、彼は続ける。
「苦しみには意味があります。とりわけ、選ばれた方のお痛みは。多くの者が背負えぬものを、ただお一人で負うために選ばれたのですから」
その言葉に、セラフィナは薄く笑いそうになった。笑えなかったのは、喉の奥から咳がこみ上げたせいだった。またこの順番だ、と思った。状況を述べ、事実を認め、それでも、と続く。いつも同じ道筋を通って、同じ場所へ連れていく。
身を折るようにして咳き込み、口元へ当てた布へまた血が滲む。侍女が悲鳴のような声を上げかけ、慌てて抑えた。
シリルは一歩も近づかないまま、ただ見ていた。その視線の中に同情はある。だがそれは、人の苦しみに寄り添うものではなく、苦しみの価値を量る者の目だと、セラフィナには思えた。
「……意味なんて」
咳の合間に、ようやくそれだけ言う。
「そんなもの……もう、どうでもいいのです」
シリルは何も答えなかった。短い沈黙のあと、扉の外で別の揉める声が高まった。それを聞き取ったのか、彼はゆっくりと振り返る。
「どうやら、お客様のようです」




