第13章 欠けたまま②
朝の広場は、昨夜より静かだった。
静かだからこそ、壊れたものがよく見えた。崩れた回廊の残骸がまだ片づききらずに積み上がり、砕けた石の粉が白く地を覆っている。鐘楼の上空にはなお黒い流れがまとわりつき、完全な渦ではないにせよ、瘴気は消えていない。
あちこちに座り込んだ人々は夜の恐慌を越えたあとで逆に声もなく、祈る者は祈り、呆然とする者はただ鐘楼を見上げていた。疲れ果てた騎士たちの鎧は朝の光を鈍く返し、その表情には限界が刻まれていた。
そして広場の北側、柵と縄で封じられた先に、奈落があった。
目に入った瞬間、足が止まった。
セラフィナは息を吸えなくなった。昨夜は闇と混乱と粉塵の中で見た裂け目が、朝の光の下ではもっと無惨に見える。
地が裂け、そこだけ世界の底が剥き出しになったみたいだった。黒い。底が見えない。見えないのに、そこへ落ちていった。あまりにも鮮明に思い出される。
手袋の下の指が震えた。だが相変わらず涙は出ない。喉の奥で代わりに熱い咳がせり上がり、セラフィナは外套の襟元へ顔を伏せた。押し殺したつもりでも肩が震える。侍女が「姫殿下」と泣きそうな声を上げたが、首を振ってそれを制した。
そのときだった。広場の南側、井戸の近くで悲鳴が上がる。
「まただ!」
「離れろ!」
「水が——」
人の輪がいっせいに引いた。石囲いの井戸の縁から、黒いものがじわりと溢れていた。ただの濁りではない。水面そのものが墨を流したように暗く変わり、そこから細い靄が這い出している。近くで水を求めてしゃがんでいた少女が倒れ込み、傍らの母親が取り乱してその身体を抱き起こそうとしていた。
白耀石が運び込まれる。騎士たちが人を下がらせ、神官が祈りを唱える。だが、白い光が井戸の周囲をかすめても、黒い滲みは完全には引かなかった。押し返しはする。けれど足りない。誰の目にもそれがわかった。
セラフィナの胸の奥で、魚が強く跳ねた。
行かなければならない、と思った。いや、もうそれは思考ではなかった。喉の痛みも胸の熱も、目の前の井戸に向かった瞬間にかえって遠くなる。白耀石だけでは足りない。自分が触れなければ。そうすれば消える。そうすれば少しは状況を改善できる。
「姫殿下、お下がりを!」と騎士が叫んだ。
「近づいてはなりません!」と別の声が重なる。
セラフィナはそれらを聞き流したわけではなかった。ただ、足が止まらなかった。昨夜のように誰かが真正面から立ち塞がることもない。止めようとする声はあるのに、決定的に足りない。痛いほど、その空白がわかった。
井戸へ近づくにつれ、少女の母親が泣きながら道を開けた。セラフィナは右手の傷を庇いながら、左手の手袋を外した。侍女が息を呑む音がした。騎士たちが動く。だが間に合わない。
「姫殿下!」
その呼び声の中、セラフィナは井戸の縁へ手を触れた。
黒いものが、一瞬で引いた。
正確には、引いたというより吸い上げられた。水面を覆っていた瘴気が左手から腕へ這い上がり、衣の下の魚へと呑み込まれていく。あまりの苦痛に視界が白く焼けた。喉が締まり、胸の内側を鋭い刃で引き裂かれるようだった。それでも井戸の中の黒は消えうせ、少女の身体を包んでいた冷たい靄も霧散していく。
代償はすぐに来た。
セラフィナは井戸の縁へ片手をついたまま激しく咳き込んだ。ひとつこみ上げれば止まらない。胸の奥から何かが逆流してくる。口元を押さえた手袋に、熱いものが滲んだ。見なくてもわかった。次の咳で膝から力が抜け、そのまま崩れ落ちそうになった身体を、背後から誰かが支える。
「姫殿下」
シリルだった。
彼の腕は細いのに、意外なほどしっかりしていた。倒れきる前に抱き留められ、セラフィナはどうにか地面へ膝をつくにとどまる。視界の端で、井戸のまわりの人々がどよめいた。少女の母親が泣きながら何度も頭を下げている。神官たちは顔を見合わせ、騎士たちは苦々しくも安堵したような、矛盾した表情を浮かべていた。
「やはり……」
誰かが呟いた。
「姫殿下のお力がなければ」
別の誰かがそれに続く。
セラフィナはその声を、遠い場所で聞いているようだった。喉の奥が焼ける。口元の布へまた赤が滲む。魚は衣の下でのたうち、黒ずんだ影となって皮膚の内側を泳ぎ回っていた。慌てて手袋をつけなおし、素肌へ泳ぎかけていたそれを隠すように指先を握り込む。
汚してしまった、と思う。苦しませている、と思う。けれど止める気にはならなかった。魚もどうしたらいいのかわからないのかもしれない。漠然とそう思う。
瘴気を吸い上げればセラフィナも魚も苦しいのに、他にどうしたらいいのか、道が見えない。
シリルが膝を折り、低く囁く。
「ご無理をなさいましたね」
責める響きはない。慰めのような、祈りのような声だった。
「ですが、あなたにしかできなかった。素晴らしい功績です」
その言葉は、優しいのに冷たかった。傷口へ静かに薬を流し込むふりをして、もっと深く開かせるような声だった。
またこの順番だ、とどこかで思った。労い、認め、それでも、と続く。いつも同じ順番で来る。
セラフィナは呼吸を整えようとしたが、うまくいかない。騎士のひとりが「もうお戻りください」と言った。別の者も「これ以上は危険です」と重ねる。
けれどその声には、先ほどより弱い揺らぎがあった。止めたい。だが今、目の前で確かに瘴気は退いた。井戸のそばにいた人々は助かった。その現実が、彼ら自身の足元を崩している。
命じられている。姫殿下を生きて戻せと。
だが旧都もまた救わねばならない。
そして姫殿下なら、それができる。
その相反する願いの間で、彼らは揺れている。揺れながら、結局は押し返せない。レオニスならそこに揺らぎはなかったのだと、セラフィナは不意に思う。あの人だけは旧都がどうであれ、白耀石がどうであれ、まず自分を前へ出させまいとした。だからこそ、もうこの場にはいないのだとも思った。
胸の奥の空洞がまたひどく痛んだ。
「……まだ、あります」
セラフィナは掠れた声で言った。
「何がです」
「瘴気です。ここだけでは、足りない」
誰かが止めようとした。誰かが名を呼んだ。だがもう、その声はひどく遠い。広場のあちこちに残る黒ずんだ流れが、セラフィナには見えていた。井戸だけではない。崩れた石の隙間、排水溝の縁、倒れた荷車の影。枝葉のように散った瘴気がまだ生きている。そしてその根は、鐘楼の下の奈落へ通じている。
奈落まで行かなければ、本当には終わらない。あの闇そのものを消し去らなければ。
セラフィナは立ち上がろうとした。足元がぐらつき、再びシリルの手が支える。騎士たちが前へ出る。だがその動きにも、もはや昨夜のような強さはなかった。止める言葉のどれもが、現実によって半ば失効している。
「姫殿下」と中年の騎士が呻くように言った。「これ以上は……」
「わかっています」
セラフィナは彼を見た。
「どうか、生かしてください。ここで、使い尽くせるだけ」
それが自分の命の使い道なのだと、セラフィナは思った。ここで奈落を消し去ることができるのなら、もう城へ戻れなくても構わない。声にした途端、それが自分の本音だとわかった。役に立つためでも、誰かを救うためでもない。ただ、このまま消えてしまいたかった。
広場の空気が凍った。
自分でも、それがどれほど危うい言葉かはわかっていた。わかっていて、訂正する気にもなれなかった。昨夜決めたことが、朝になってただ冷たく固まっていた。悲しみが凍って、薄い刃になっていくようだった。騎士は唇を引き結び、何も言えなかった。侍女は青ざめて震えている。
「……神も、あなたの覚悟をご覧になっているでしょう」
シリルだけが、セラフィナを支えたまま静かに呟いた。歌うようにやわらかなその声音は、労わる響きをまといながら、結果としては何よりその場にいた全員の背を押すものだった。
鐘がまた鳴った。濁った低音が朝の空を裂く。
セラフィナはゆっくりと鐘楼を見た。あの下へ近づくほど、自分はもっと削られるだろう。それでも行くしかない。行かなければならない。レオニスがいないなら、誰も止めない。誰も本当の意味では、止められない。
その事実だけが、欠けた胸の中で冷たく光っていた。




