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第13章 欠けたまま①

 

 夜が明けても、鐘は止まなかった。


 旧都の空は薄く白みはじめているのに、その音だけは夜の底から引きずられてきたみたいに重く、濁っていた。祈りのための鐘ではない。誰もがそれをもう知っている。鳴り続けるたび、大聖堂の石壁は低く震え、眠れぬまま夜を越した人々の顔からさらに色を奪っていった。

 ゆっくりと寝台の上で体を起こす。セラフィナは結局、一度もまどろむことすらできなかった。


 目を閉じるたびに見えたのは、奈落へ落ちていく影と、届かなかった指先だった。来るな、と掠れた声が耳の奥で繰り返し鳴った。

 自分のせいで。その結論だけが、夜のあいだ何度も何度も形を取り直し、ようやく朝が来たころには、胸の奥へ冷たい刃のように収まっていた。


 侍女が寝台のそばで「どうか、もう少しだけお休みください」と言ったとき、セラフィナは静かに首を振った。

 声を出す前から喉の奥がひりつく。呼吸をするだけで胸が痛んだ。身体のどこもかしこも、昨日までの自分のものではないみたいに重い。

 それでも立ち上がる。


 足を床につけた瞬間、膝がわずかに揺れる。侍女が慌てて支えようとしたが、セラフィナはその手を手袋越しにそっと押し返した。

「大丈夫」と言おうとして、代わりに咳がこみ上げた。咄嗟に口元へ布を当てる。ひとつ、ふたつ、短く続いた咳のあと、布を外した侍女が息を呑んだ。

 白い布地に、赤が滲んでいた。


 セラフィナ自身もそれを見た。見たが、驚きはしなかった。

 驚けるほどの余力が、もうどこにも残っていなかった。喉の焼けるような痛みも、胸の奥が削られるような感覚も、昨夜からずっとそこにあったからだ。

 右手の手袋の下では傷が熱を持ち、衣の下では魚が鈍く脈打っている。


「お医者を……」

 と侍女が震える声で言う。


「いりません」


「ですが……」


「支度を」


 ひどく静かな声だった。

 自分でも驚くほど平らで、揺れがなかった。

 侍女は泣きそうな顔をしたが、それ以上は言えず、黙って外套と新しい手袋を用意しに下がった。枕元に置かれた水を少し口にしたが、わずかに苦く感じるのは瘴気に侵されているからなのかもしれない。


 そのころ、大聖堂の奥ではすでに朝から言い争う声がしていた。低く抑えた騎士の声と、苛立ちを隠しきれない聖職者たちの声が、石の回廊を通して薄く響いてくる。

 王都では覆い隠されていたものが、ここではもう隠しきれないのだと、セラフィナは思った。今この旧都では、綺麗な祈りの言葉だけでは何ひとつ覆い隠せないのだろう。身支度を整え終え、白耀石の安置された広間へ向かうと、その張りつめた空気は扉の外にまで滲み出ていた。


 中では騎士たちと教会側が向かい合っていた。老司祭の顔色は悪く、その傍らに立つ神官たちも一様に疲れ果てている。騎士たちも同じだった。鎧には煤と粉塵が付き、誰もまともに眠っていないことがひと目でわかった。

 それでも彼らは、教会側の前に壁のように立っている。


「姫殿下にはお休みいただくべきです」

 最前にいた中年の騎士が言った。声には疲労が滲んでいたが、拒絶は明確だった。

「王命です。何があっても、姫殿下を無事にお戻ししろと仰せつかっている」


「旧都が今どういう状況にあるか、あなた方も見たでしょう」と老司祭が返す。

「一刻を争うのです。昨日のような瘴気の噴出が再び起これば、もう広場どころの話では済まぬ」


「それでもだ」

 騎士は一歩も引かなかった。

「これ以上あの方に無理をさせれば、帰還どころか——」


 言葉はそこで切れた。セラフィナが入ってきたことに、ようやく気づいたのだろう。何人かが一斉にこちらを見る。老司祭は息を呑み、騎士たちは明らかに顔色を変えた。


「姫殿下」

「お下がりください」

「まだ起きておられるべきでは——」


 あちこちから声が飛ぶ。だがそのどれも、レオニスの声ではなかった。

 一瞬沢山の人の中にあの人の姿を探してしまっていた。あの人なら、こんなふうに周囲と押し合うような言葉の選び方はしなかっただろうと思う。

 短く、鋭く、決して通さない言い方で前に立ったはずだ。自分の身体を、旧都のための道具としてではなく、傷つけてはならないものとして扱ったのは、あの人だけだった。


 もう、いない……


 今さらのように、そのことが胸へ刺さる。

 セラフィナは白耀石の近くまで歩いた。ほんの十数歩の距離なのに、息が浅くなる。途中でまた咳がこみ上げ、慌てて口元を押さえた。

 今度は布を見なかったが、喉の内側に広がる鉄の味で十分だった。


「広場の状況を」

 とセラフィナは言った。


 騎士も神官も一瞬口を閉ざした。答えたのは昨夜から報告役を務めていた若い騎士だった。疲れのためか声はかすれていたが、内容は簡潔だった。

 鐘楼周辺はなお危険で、崩れた回廊の封鎖も終わっていない。奈落は閉じておらず、近づけば足元ごと崩れるおそれがある。夜のあいだにも広場の端や旧都の路地で小規模な瘴気溜まりがいくつか発生し、患者の急変も続いている。避難民の混乱も収まらず、水場へ近づけない地区では不安が広がる一方だという。

 聞いているだけで、魚が衣の下で鈍く身じろぎした。鐘楼。奈落。そこへ続く流れ。まだ終わっていないどころか、むしろ広がろうとしている。


 セラフィナはひとつだけ問いを足した。


「……捜索は」


 広間の空気が目に見えて固くなった。

 若い騎士が答えに詰まり、代わりに先ほどの中年の騎士が低く言った。


「続けております、が……」


 それだけだった。

 続けている。しかし、見つかる見込みはない。そういう響きしかなかった。セラフィナは頷きもせず、その話を自分の中で断ち切るように視線を落とした。はっきりと聞けば、立つことが出来なくなる。聞かなくてももう崩れているのに、それでもそれ以上は聞けなかった。


「白耀石を、広場寄りへ移してください」


 老司祭が顔を上げる。騎士たちははっとしたように息を呑んだ。


「姫殿下」

「いけません」

「そんなお身体で——」


 声が重なる。だがセラフィナは続けた。


「大聖堂の中に置いたままでは足りないのでしょう。鐘楼へ近い場所で押し返さなければ、また同じことが起きます」


「危険です」

 と騎士が言う。

「広場はまだ安全とは言えません」


「安全ではないからです」


 そこで一人の若い騎士が、押し殺すように「レオニス殿がいれば……」と言いかけた。

 すぐに隣の者が制したが、もう遅かった。

 その名は短く、鋭く、セラフィナの胸を切り裂く。

 セラフィナは一瞬だけ目を閉じた。

 レオニスがいれば。そうだろう。あの人がいれば、誰よりも前で止めたはずだ。


 だが、もういない。

 その不在が胸の奥の空洞へ改めて重く沈み、同時に、セラフィナの中にある決意だけをさらに固くした。


「だから、わたしが行きます」


「姫殿下!」


「王家は、わたしを生きて戻せと命じたのでしょう」


 騎士たちが息を詰める。そのとおりだからだ。


「ならば、その命は守ってください。でも旧都を見捨てることはしないでください」


「……我々も、見捨てるつもりはありません」

 中年の騎士の声は苦かった。

「ですが、あなたを失えば——」


「失えば、困るのでしょう」


 静かな言葉だった。責めたつもりはなかった。責める気力も、もうなかった。

 ただ、見えてしまったのだ。この人たちの揺れが。止めたいのに止められない、その正直な苦しさが。

 その場の誰もが、何を言われたのか理解した顔をした。騎士たちは王命を受けている。だがそれだけではない。彼らもまた、今この惨状を前にして、セラフィナに瘴気を鎮めてほしいと願っている。


 止めたい。けれどこの場をなんとかして欲しい。

 生かしたい。けれど役に立ってほしい。


 その相反する願いのどちらも、本物なのだろう。

 だからこそ、誰もレオニスのようには止められない。


 広間の沈黙を破ったのはシリルだった。


「姫殿下のお身体は、明らかに消耗しておられます」


 穏やかな口調だった。非難でも反対でもなく、ただ事実を置く声だった。


「ですが……この地の有り様もまた、待ってはくれません」


 その言い方に、老司祭はすぐに頷く。騎士たちは渋い顔をしたまま黙り込む。シリルは止めているようでいて、結局は道を残す。苦痛を認めながら、それでも役目へ進ませる。その柔らかな声が、セラフィナには昨夜と同じように逃げ場のないものに思えた。


 結局、白耀石を大聖堂の外、広場へ近い回廊の入口まで移し、そこまでセラフィナも同行することになった。奈落の縁へは近づけない。鐘楼の真下へも行かせない。騎士たちは何重にも条件をつけ、それでも実際には、その場で何が起こればまた条件など意味を失うのだろうと皆が知っていた。


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