表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

29/66

第12章 落下のあと②

 

「姫殿下、今夜はお休みを」と侍女が震える声で言った。

「どうか、お身体が……」


 セラフィナはゆっくり首を振った。


「……休んでいる場合ではありません」


 思ったよりも静かな声だった。掠れてはいたが、不思議とすんなり声が出た。侍女が息を呑む。老司祭の顔に、安堵とも焦燥ともつかない色が差した。シリルだけが、ほんのわずかに目を細めた。


「白耀石を、鐘楼へ近づけることはできますか」


 その場の空気が変わった。

 老司祭がすぐに答える。


「危険だが、大聖堂に置いたままでは広場全体までは覆いきれぬのも確かだ」


「では、共にわたしも行きます」


 侍女が小さく悲鳴を上げた。老司祭は何か言いかけて、セラフィナの顔を見て言葉を失ったのだろう。しばらく黙った。


「姫殿下」とシリルが静かに割って入る。

「それは、あまりにもお身を削ります」


 その言葉には確かな事実があった。だからこそ優しかった。だからこそ逃げ場がなかった。セラフィナは彼を見た。


「かまいません」


 シリルの瞳が、ほんのわずかに揺れた。意外だったのか、それとも予想通りだったのかはわからない。


「かまわないのです」


 言ってから、少しだけ迷った。


 巡礼に出る前、行かないでくれと、頼みますと言ったレオニスの声が、まだ耳の奥に残っていた。わずかに心が揺れる。

 そんな優しい言葉を言ってくれた人が、いた。じくりと胸の底が痛む。


 それでも——と思う気持ちと、それでも——と思えない気持ちが、胸の中で静かにぶつかっていた。

 セラフィナはその迷いを飲み込んで、もう一度言った。


「行きます」


 誰も答えない。

 否定できないのだ。


 レオニスなら、きっと止めただろうと思った。怒って、苦しそうな顔をして、それでも前に立って、行かせまいとしただろう。だがもう、その人はいない。止める手も、庇う背中も、ここにはない。


 それなら、自分で行くしかない。


 そう考えた瞬間、胸の奥がまた少しだけ冷えた。悲しみが凍って、薄い刃になっていくようだった。


「夜が明けてから、もう一度広場の状況を見ます」とセラフィナは言った。「準備をしてください」


 老司祭はためらいながらも頭を下げた。侍女は泣きそうな顔で俯く。シリルだけがしばらく無言でセラフィナを見つめていたが、やがて静かに一礼した。


「承知いたしました」


 その声音は穏やかだった。まるで、自分が望んでいた答えをようやく引き出せたとでもいうように。


 セラフィナは再び白耀石を見た。白い光は変わらず祭壇の奥で脈打っている。冷たく、美しく、遠い光だった。その光の前で、レオニスのいない世界だけが、どうしようもなく現実だった。


 そしてその夜、セラフィナは眠ることができなかった。


 目を閉じれば、届かなかった指先が見えた。

 来るな、と掠れた声が聞こえた。

 触れれば死ぬ。だから落ちた。自分のせいで。

 その結論だけが、何度も何度も、暗闇の中で形を取り直した。


 夜の終わりが近づいても、悲しみはついに涙にならなかった。

 一度も溢れさせることのないまま、セラフィナの悲しみはもっと硬く、もっと静かなものへ変わっていた。


 レオニスがいなくなった。

 それだけで、世界の重さが変わった。

 生きていることに意味を見つけようとしてきた。塔の中でも、茶会でも、旧都でも。

 でも今は、その意味がどこにも見当たらない。


 ならば、せめて。

 自分の身が尽きるまで、瘴気を止めよう。

 それ以外に、残されたものが思いつかなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ