第12章 落下のあと②
「姫殿下、今夜はお休みを」と侍女が震える声で言った。
「どうか、お身体が……」
セラフィナはゆっくり首を振った。
「……休んでいる場合ではありません」
思ったよりも静かな声だった。掠れてはいたが、不思議とすんなり声が出た。侍女が息を呑む。老司祭の顔に、安堵とも焦燥ともつかない色が差した。シリルだけが、ほんのわずかに目を細めた。
「白耀石を、鐘楼へ近づけることはできますか」
その場の空気が変わった。
老司祭がすぐに答える。
「危険だが、大聖堂に置いたままでは広場全体までは覆いきれぬのも確かだ」
「では、共にわたしも行きます」
侍女が小さく悲鳴を上げた。老司祭は何か言いかけて、セラフィナの顔を見て言葉を失ったのだろう。しばらく黙った。
「姫殿下」とシリルが静かに割って入る。
「それは、あまりにもお身を削ります」
その言葉には確かな事実があった。だからこそ優しかった。だからこそ逃げ場がなかった。セラフィナは彼を見た。
「かまいません」
シリルの瞳が、ほんのわずかに揺れた。意外だったのか、それとも予想通りだったのかはわからない。
「かまわないのです」
言ってから、少しだけ迷った。
巡礼に出る前、行かないでくれと、頼みますと言ったレオニスの声が、まだ耳の奥に残っていた。わずかに心が揺れる。
そんな優しい言葉を言ってくれた人が、いた。じくりと胸の底が痛む。
それでも——と思う気持ちと、それでも——と思えない気持ちが、胸の中で静かにぶつかっていた。
セラフィナはその迷いを飲み込んで、もう一度言った。
「行きます」
誰も答えない。
否定できないのだ。
レオニスなら、きっと止めただろうと思った。怒って、苦しそうな顔をして、それでも前に立って、行かせまいとしただろう。だがもう、その人はいない。止める手も、庇う背中も、ここにはない。
それなら、自分で行くしかない。
そう考えた瞬間、胸の奥がまた少しだけ冷えた。悲しみが凍って、薄い刃になっていくようだった。
「夜が明けてから、もう一度広場の状況を見ます」とセラフィナは言った。「準備をしてください」
老司祭はためらいながらも頭を下げた。侍女は泣きそうな顔で俯く。シリルだけがしばらく無言でセラフィナを見つめていたが、やがて静かに一礼した。
「承知いたしました」
その声音は穏やかだった。まるで、自分が望んでいた答えをようやく引き出せたとでもいうように。
セラフィナは再び白耀石を見た。白い光は変わらず祭壇の奥で脈打っている。冷たく、美しく、遠い光だった。その光の前で、レオニスのいない世界だけが、どうしようもなく現実だった。
そしてその夜、セラフィナは眠ることができなかった。
目を閉じれば、届かなかった指先が見えた。
来るな、と掠れた声が聞こえた。
触れれば死ぬ。だから落ちた。自分のせいで。
その結論だけが、何度も何度も、暗闇の中で形を取り直した。
夜の終わりが近づいても、悲しみはついに涙にならなかった。
一度も溢れさせることのないまま、セラフィナの悲しみはもっと硬く、もっと静かなものへ変わっていた。
レオニスがいなくなった。
それだけで、世界の重さが変わった。
生きていることに意味を見つけようとしてきた。塔の中でも、茶会でも、旧都でも。
でも今は、その意味がどこにも見当たらない。
ならば、せめて。
自分の身が尽きるまで、瘴気を止めよう。
それ以外に、残されたものが思いつかなかった。




