第12章 落下のあと①
鐘は、まだ鳴っていた。
狂ったようなその音が旧都の空を打ち続けているのに、セラフィナにはもう、遠く水の底で響いているようにしか聞こえなかった。奈落の縁から引き戻されたあとも、視線だけは何度もあそこへ戻ろうとした。だが騎士たちが周囲を封鎖し、崩れた石と負傷者と怒号が視界を埋めていくにつれ、黒い裂け目そのものすら見えなくなっていった。
それでも、落ちた、という事実だけは消えなかった。
レオニスが自分の目の前で落ちた。
自分が手を伸ばしたから。
自分に触れれば死ぬと知っていたから、彼は最後まで掴まなかった。
その考えが、熱でも毒でもないのに、全身へゆっくり回っていく。胸の奥が冷えていくのに、喉だけが焼けるように熱かった。咳をしようにも息がうまく吸えず、ただ唇が浅く開閉するばかりになる。
「姫殿下、お歩きください」
誰かが言った。
誰の声かもわからなかった。
セラフィナの肩にはまだシリルの手があった。
レオニスの他にも、こうして布越しで触れることを怖がらない人間がいたのかと、ぼんやりと自分の外側から冷静に見ている自分がいた。けれどその手はレオニスとは全然違う。
支えているというより、逃がさないための手だった。強すぎはしない。だが、振りほどけない程度には確かだった。その静かな力加減がひどく恐ろしい。乱暴に引きずられる方が、まだ抵抗できたかもしれない。
レオニスの手は、いつも先に来た。求める前に、倒れる前に、そこにあった。優しく導いてくれた。それを当たり前だと思い始めていたことに、今さら気づく。
「……いや」
掠れた声が漏れる。
自分でも、それが拒絶なのか懇願なのかわからなかった。
「ここは危険です」
シリルの声は変わらず穏やかだった。鐘楼の崩落と悲鳴のただ中でも、あまりに乱れがない。そのことが、かえって現実感を奪った。
まるで自分だけが悪い夢を見ていて、その外側ではもうすべてが片づき始めているようだった。
セラフィナは返事をしなかった。できなかった。返事をするためには、まだここにいると認めなければならない。
レオニスがいなくなったあとも、自分だけが生きて立っているのだと。
広場では、負傷者のうめき声があちこちで上がっていた。
崩れた回廊の下敷きになった者を引きずり出す騎士。子どもを抱いて泣き崩れる母親。祈りの言葉を唱えながら震えている老女。
鐘楼の上空では黒い渦がまだゆるやかに回り、奈落から吹き上がる瘴気は広場の空気をなお重く濁らせている。
なのに、誰もその渦を見ていないように思えた。誰もが足元と傷と恐怖に囚われていた。
世界はまだ壊れ続けているのに、誰にもそれを止められない。
止めなければならないものが残っているのに、レオニスはもういない。
セラフィナはそこでようやく、小さく息を吸った。
吸ったはずだったが、胸の途中で詰まった。苦しい。痛い。
だがそれ以上に、胸の中央にぽっかり空いたものの方が大きかった。何かを失った、ではない。支えていた柱を一本引き抜かれたような感覚だった。
大聖堂へ戻されるまでの道も、ほとんど覚えていない。
誰かに支えられて歩いたこと、途中で何度か膝が折れそうになったこと、侍女が泣きそうな顔で外套の裾を整え続けていたこと、その程度の断片だけが薄く残っている。
ただ、大聖堂へ入った途端、白耀石の光を見た瞬間に吐き気がこみ上げた。
祭壇の奥で白く光る巨石は、先ほどと変わらぬ顔をしてそこにあった。人々はその前へ膝をつき、ある者は泣き、ある者は救いを求め、ある者は奇跡を信じようとしている。だがセラフィナには、それがひどく空虚に見えた。レオニスひとり救えなかった光が、何を清めるというのだろう。
「姫殿下にお掛けいただいて」
誰かの声がする。
侍女が椅子を寄せる。
シリルの手が肩から離れた。
その瞬間に、セラフィナは崩れるように腰を落とした。立っていられなかった。足の感覚が急に遠のき、膝の力が一度に抜けたようだった。
裂けた右手袋の下ではまだ魚が熱を持って脈打っていたが、その熱ささえ今はよくわからない。ただ、布の下にあるものが、自分の身体の一部ではないように感じられた。
視線を落とすと、右手の裂け目から血が滲んでいる。そういえば、あのとき伸ばしたのはこの手だった。素肌のまま。だからレオニスは止めた。だから来るなと言った。だから──。
同じ考えが脳裏を何度も去来し、喉の奥からかすれた音が漏れた。泣いたのではなかった。泣く前に壊れたみたいな、乾いた音だった。
「お水を」
侍女が慌てて差し出した杯を、セラフィナは受け取れなかった。手が震えていたのだと思う。あるいは、もう何かを受け取るという動作そのものが難しくなっていたのかもしれない。杯は侍女の手に戻され、別の者が薬湯を持ってきたが、それも口をつけることができなかった。
「手袋を」
セラフィナが絞り出した小さな声に、侍女が慌てて予備の手袋を差し出してくる。
しばらくして、老司祭が近づいてきた。顔色は悪く、衣の裾には粉塵が付着している。先ほどまでの威圧は薄れていたが、その目には別の焦りが宿っていた。崩落と奈落と瘴気の噴出を目の当たりにした今となっても、彼の中で最優先なのは旧都そのものなのだろう。
「姫殿下」
その呼びかけに、セラフィナは顔を上げなかった。
「いまはおつらいでしょう。しかし、旧都の状況は一刻を争います。先ほどの広場の異変をご覧になったはずだ。鐘楼の下にあれだけの瘴気だまりがある以上、ここで手を止めれば被害は広がるばかりです」
手を止めれば。
その言葉に、セラフィナの胸の奥で何かがひどく鈍く沈んだ。
自分はまだ何もしていない。何ひとつ止められていない。レオニスひとり守れず、瘴気も止まらず、ただ生き残って椅子に座っている。
「……そうですね」
自分の声とは思えないほど冷酷で平坦な声だった。老司祭がわずかに身を乗り出す気配がする。期待したのだろう。姫が役目へ戻ると。
だがセラフィナの中にあったのは使命感ではなかった。もっと暗く、もっと冷たいものだった。
自分がいたせいで、あの人は落ちた。
ならば自分の身体がどれだけ削れても、せめて瘴気くらいは止めなければ釣り合わない。
そう思ってしまった瞬間、胸の痛みはかえって静かになった。苦しみが消えたわけではない。ただ、行き先を得たのだ。悲しみや後悔ではなく、自分を壊す方向へ。
「姫殿下」
今度の声はシリルだった。老司祭より半歩後ろに立ちながら、穏やかな口調で続ける。
「どうか、ご無理はなさらぬよう。あなたがお力を振るうたび、その身がどれほど傷むか、先ほど拝見しておりました」
その言い方は労わっているようにも聞こえた。
だがセラフィナは、そこに別の響きを感じた。止めているようでいて、完全には止めない。苦しみを認めながら、それでも意味を与える声だ。
「それでも」とシリルは静かに言った。「いま、この地であなたにしかできぬことがあるのもまた事実です」
侍女がびくりと肩を震わせた。
老司祭は何も言わない。否定もしない。つまり、皆そう思っているのだ。
レオニスが落ちたあとでさえ、いや、落ちたあとだからこそ、なおさら。
セラフィナはようやく顔を上げた。シリルの目は相変わらず静かだった。そこには同情の色もあった。だが、人を見る目ではないと思った。壊れそうな器のひびを確かめるような目だった。
「……レオニスは」
名前を口にした途端、声が揺れた。だが、続きを聞かずにはいられなかった。
「もう、見つからないのでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙が答えだった。
広場のあの奈落へ人が落ちた。底は見えない。瘴気は噴き上がっている。生きているなどと、誰が言えるだろう。言えるはずがない。
セラフィナにもわかっていた。それでも誰かに否定してほしかったのだ。
まだ言葉にされていないだけだ、と。だが、誰も嘘をつかなかった。
「捜索はしております」と老司祭がようやく言った。
「しかし、あの状態では……」
そこから先は言わなかった。言う必要もなかった。
セラフィナは目を伏せた。涙は出なかった。出る段階を過ぎてしまったのかもしれない。
代わりに、身体の芯だけが冷えていく。人はこんなふうに喪失するのだろうかと思った。泣き崩れるのでもなく、叫び続けるのでもなく、ただ一枚ずつ内側から剥がれていくみたいに。
ふいに、広場で聞いた誰かの声が蘇った。
──もう助からない。
短く、低く、現実だけを置いていった声。
セラフィナは右手をそっと握りしめた。裂けた手袋の布が掌で湿っている。ゆっくりと乾いた新しい手袋につけかえた。
あのとき手袋が破けていなければ。あのときもっと早く左手を伸ばせていれば。あのとき自分があそこへ行かなければ。考えても意味のないことばかりが、次々と胸へ浮かんでは沈んだ。
けれど結局、どれも同じ場所へ行き着く。
自分がいなければ、あの人は落ちなかった。
城に出仕しなければ、呪い姫の護衛なんかにならなければ。
その思考はあまりにも自然に胸へ収まり、もはや疑う余地もなかった。周囲がどう慰めようと変わらないだろう、とセラフィナ自身がわかっていた。
外ではなお鐘が鳴っている。ときおり大聖堂の床まで震え、どこかで人の悲鳴が上がる。旧都はまだ終わっていない。レオニスがいなくなっても、瘴気は止まらず、街は壊れ続ける。世界は驚くほど無情だった。
ならばせめて、自分が止めるしかない。
それは高潔な決意ではなかった。国のためでも、人々のためでもない。ただ、レオニスを失わせた自分が、まだ息をしているなら、その分を燃やして返すしかないというだけのことだった。




