第11章 鐘楼の渦③
セラフィナの右手の先で、魚が暴れた。深碧と銀の熱が、裂けた手袋の下で脈打っている。
まるで、今すぐその底へ飛び込めと命じるように。
「────―っ!」
声にならない叫びは混乱した広場に空しく響いた。
セラフィナは崩れた縁へ膝をつく。縁にしがみつくように、黒い奈落を見下ろした。
わたしのせいだ。
わたしが素手のまま手を伸ばしたから。わたしに触れれば死ぬと、レオニスは知っていたから。だから彼は助かるための手を最後まで伸ばさなかった。どっちにしても死ぬのなら、セラフィナの目の前で、セラフィナのせいで死ぬ姿を見せないために。
セラフィナを守るために、落ちたのだ。
息が止まる。胸の奥で何かが潰れるような音がした。苦しいのに、声が出ない。喉が閉じる。視界だけが妙に鮮明で、奈落へ消えた黒をいつまでも見つめてしまう。
「いや……」
かすれた声が、ようやく唇から漏れた。
「いや……いや、いやです……」
セラフィナは崩れた縁へ膝をつき、黒い奈落を見下ろした。底は見えない。見えないのに、そこへ行かなければならないと全身が叫んでいた。あのまま落ちたなら、自分も行かなければならない。追わなければならない。せめて、同じ場所へ。
躊躇いはなかった。飛び込もうと身を乗り出した、その瞬間だった。背後から肩を強く掴まれる。細い指なのに、驚くほど容赦のない力だった。
「いけません、姫殿下」
耳元で落ちた声は、不思議なほど静かだった。悲鳴と怒号と鐘の狂ったような響きの只中で、その声だけが異様に澄んで聞こえる。振り返るまでもなく、誰なのかわかった。
「……離して」
肩を引こうとする。だが掴む手は緩まない。もう片方の手が、崩れた縁からセラフィナの身体を引き戻す。裾が石に擦れ、膝がずるりと後ろへ引かれた。
「離してください……!」
「なりません」
そこで初めて、セラフィナは振り返った。シリルがいた。粉塵に薄く汚れながらも、その顔には奇妙なほど乱れがなかった。青ざめてもいない。取り乱してもいない。ただ、静かな眼差しでセラフィナを見下ろしている。その落ち着きが、かえって残酷だった。
「放して……レオニスが……下に……」
喉が詰まり、言葉が途切れる。シリルは一瞬だけ奈落へ視線を落としたが、すぐにセラフィナへ戻した。
「ええ」
それだけだった。慰めも、否定もない。淡々と事実を受け入れさせるような短い相槌に、セラフィナの内側で何かが崩れた。
「行かせて」
「できません」
「お願い、放して……ひとりで、あそこに」
「今あなたまで失われれば、この地はどうなるのです」
その言葉は、優しい口調で告げられた。責めているわけではない。だがその穏やかさは、容赦のなさと同じだった。セラフィナは首を振る。そんなことはどうでもよかった。この地がどうなろうと、自分がどうなろうと、今はもうどうでもいい。ただ、あの奈落へ落ちていった灰色の瞳だけが頭から離れない。
「わたしが……」
声が震えた。
「わたしが、殺したんです」
シリルの瞳がわずかに細められる。だが彼はすぐには何も言わなかった。その沈黙が、肯定より重かった。
「わたしが近づいたから……手を伸ばしたから……」
息が乱れる。言葉が千切れる。
「触れたら死ぬのに……だから、あの人は……」
最後まで言えなかった。涙ではなく、もっと乾いた何かが喉に詰まっていた。泣き崩れることもできない。胸が痛いのに、どこか感覚が遠い。
わかっていたはずなのに。
わかっていたから、あの人は最後まで手を伸ばさなかった。
わたしの手が届く距離にあっても、掴まなかった。
掴めば死ぬから。わたしに触れれば、死ぬから。
だから、落ちた。
シリルはなおも肩を掴んだまま、静かに言った。
「姫殿下。どうか、石の側へ」
「嫌です」
「ここは危険です」
「嫌……!」
「どうか」
その声音はどこまでも穏やかだった。祈るようでもあり、諭すようでもある。けれどセラフィナには、それが奈落の縁から自分を引き剥がす手にしか思えなかった。
周囲ではようやく騎士たちが人払いを始めていた。裂け目へ近づく者を下がらせ、崩落の危険を叫び、負傷者を運び出している。誰かが「落ちたぞ」と言った。別の誰かが、「これはもう助からない」と低く答えた。その言葉だけが妙にはっきり耳へ残る。
助からない。
もう、いない。
セラフィナはそれを否定できなかった。否定する材料が何もなかった。目の前で落ちるところを見た。手は届かなかった。返事もない。あの黒の底は、何も返してこない。ならば、もう——。
膝から力が抜けた。シリルに支えられなければ、その場へ崩れ落ちていたかもしれない。肩の痛みも、裂けた手袋の下の熱も、遠くなっていく。ただ胸の中心だけが、ぽっかりと抉り取られたみたいに空いていた。
世界がそのまま続いているのが、信じられなかった。こんなことが起きたのに、鐘は鳴り続け、空気は動き、誰かがどこかで叫んでいる。
瘴気の渦も止まらない。奈落の底から吹き上がる黒い流れは、むしろ先ほどより勢いを増しているようにすら見える。世界は終わってしまったようなのに、終わってはくれない。レオニスだけを奪って、なお旧都は壊れ続けている。
その理不尽さが、ゆっくりとセラフィナの中へ沈んでいった。
自分のせいで、レオニスは落ちた。自分がいる限り、誰かがこうして失われる。だったらもう、自分の身がどうなってもよかった。痛くても、削れても、壊れても、瘴気を止められるなら、それしかないのではないかと、暗い考えが静かに形を取り始める。
シリルが何か言っていた。けれど、もう半分も耳に入らなかった。セラフィナは奈落から目を離せないまま、かすれた声でただ一度だけ言った。
「……白耀石のところへ、戻ります」
それは休むための言葉ではなかった。諦めの言葉でもない。自分に残されたものが役目しかないと、そう受け入れてしまった者の声だった。
胸の奥の空洞は、埋まらないままだった。埋めようとする気力も、もうなかった。




