第11章 鐘楼の渦②
「セラフィナ様!」
レオニスの声が、初めて鋭く響いた。
だがもう遅い。
セラフィナは数歩、前へ出ていた。
倒れた少年の方へ、ではない。
その足元から立ちのぼる黒い靄の方へ。靄から子供を守るように。
魚がそこへ向かえと叫んでいるようだった。胸が苦しい。喉が焼ける。それでも近づかなければならない気がする。
少年の母親らしい女が泣きながら駆け寄ろうとし、別の男がそれを止める。広場全体が半歩ずつ後ずさっていく中で、セラフィナだけが前へ出る。
「だめだ!」
今度のレオニスの声は、制止というより悲鳴に近かった。
その直後、背後から腕をつかまれる。
強い力だった。
だが振りほどく前に、セラフィナの足元の石畳が鈍く震えた。
ごう、と風が鳴る。
見上げれば、鐘楼の上空の渦が一段と深くなっていた。
黒い流れが太くなる。空の色がそこだけ抜け落ちたみたいに暗い。鐘の音はもはや鐘の音ではなく、塔そのもののうめきに近かった。
「下がれ!」
どこかで騎士が叫ぶ。
次の瞬間、鐘楼の中ほどで塔が弾けた。
乾いた、信じられないほど大きな音だった。
ひびが走る。白い粉塵が散る。広場にいた人々がいっせいに逃げ惑う。誰かが転び、誰かが別の誰かを庇って倒れる。
セラフィナの足もすくみかけた。
そのとき、レオニスが前へ出た。
迷いのない動きだった。
セラフィナを庇うために、ただそうするのが当然だとでもいうように、一歩、二歩と前へ踏み込む。
庇われたセラフィナには、そこから先の場面がまるでゆっくり流れていくように見えた。
崩れた石片が広場へ落ちてくる。
その先に、逃げ遅れた母子がいた。
レオニスにも見えたのだろう。
レオニスは石片の雨から母親を突き飛ばすようにして庇い、その子を抱え込むように腕を伸ばした。次の瞬間、塔の中腹から落ちた大きな石が、広場の端に張り出していた古い回廊の屋根を砕いた。長年の風雨で脆くなっていたそこへ、石と木がまとめて崩れ落ちる。
待って、と叫ぼうとした。
その瞬間だった。
鐘楼の根元で、黒い渦が弾けた。
爆ぜる、という音ではなかった。
むしろ空気そのものが裏返るような、鈍く重い衝撃だった。
広場の石畳の下から瘴気が一気に噴き上がる。
見えない槌で殴りつけられたように、周囲の人々がまとめて吹き飛ばされた。
セラフィナの身体も容赦なく攫われる。
息が詰まった。
景色がひっくり返る。
肩から石畳へ叩きつけられ、遅れて全身に痛みが走った。耳鳴りがする。何が起きたのかわからないまま、指先だけが異様に熱かった。
自分の無事を確かめるより先に、セラフィナは顔を上げた。
レオニス。
粉塵の向こう、崩れた回廊の縁に、彼の姿が見えた。
レオニスは砕けた石の縁に片腕でどうにか引っかかり、身体の半分以上を虚空へ投げ出したまま、辛うじて留まっている。もう片方の腕は、さっき庇った子どもを地面に押し戻した勢いのまま空を切っていた。
その下は地面ではなかった。
崩れた石の裂け目の底から、瘴気が無限に湧き上がっていた。
足元には黒々とした大きな穴が開いている。瘴気だまりがこんなに巨大な形で、しかも地下に存在していたなんて。
黒い。
ただ黒いだけではない。
底が見えない。
深い井戸のようでも、裂けた地の口のようでもあった。これがこの地を巡る“気”の本来の流れだったのだとしたら、瘴気だまりなど可愛いものではない。地面そのものが腐って穴を開け、その奥から尽きることなく瘴気が噴き出している。純粋な闇が蠢いているようだった。見ているだけで吸い込まれそうになる。
鐘楼の渦は、この裂け目とつながっている。
セラフィナは直感した。
膝が震える。肩も痛む。息も苦しい。
それでも、なんとかしなければならなかった。衣の下の魚が狂ったように暴れている。鐘楼の渦と、裂け目の底と、そしてレオニスのいる場所すべてへ引かれていた。
「だめ、動かないで……!」
何を言っているのか、自分でもわからなかった。
動いているのは自分の方だった。
崩れた石の縁へ駆け寄る。足元の砂利が滑る。裂け目の底から吹き上がる瘴気は冷たいはずなのに、肌へ触れると焼けるようだった。
「レオニス!」
叫んだ声は掠れていた。
彼が顔を上げる。
灰色の瞳が、粉塵の向こうからまっすぐこちらを捉えた。レオニスがセラフィナの方へ手を伸ばす。セラフィナも身を乗り出して必死に手を伸ばした。
あと少し。
ただ、レオニスを掴みたくて。
それだけだった。理由も計算もなく、ただその一点だけしかなかった。けれどそのとき、レオニスの視線がセラフィナの右手へ落ちた。
その瞬間、セラフィナは初めて気づく。
裂けた手袋。
露わになった素肌。
さっきの衝撃でどこかに引っ掛けたのか、無惨に破れた手袋の端には血が滲んでいた。
そして、レオニスがこちらに伸ばしている左手にも、もう手袋がなかった。
破れた黒布が崩れた石の角に引っかかって揺れている。
レオニスの顔色が変わった。
「来るな!」
初めて向けられた怒声だった。
レオニスは片腕でどうにか身体を支えたまま、伸ばしかけていた手を止めた。
「来るなと言っている!」
怒っているのに、その声はひどく掠れていた。
セラフィナは首を振る。
「いやです」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
怖い。苦しい。何もかもが恐ろしい。
それでも、それだけは迷わなかった。
「誰か……!」
セラフィナが触れれば、レオニスが死んでしまう。
誰か、誰か代わりに──そう思っても、周囲はまだ混乱の最中だった。崩落を避けて逃げ惑う者、泣き叫ぶ者、呆然と立ち尽くす者。誰も、この裂け目の縁まで来ようとはしない。
「誰か来てっ!」
叫んだ声は混乱に飲み込まれて誰にも届かない。
レオニスの指先が、空の中でわずかに揺れた。
掴むしかない。
幸いセラフィナの左手の手袋はまだ破けていない。
セラフィナはそちらを必死に伸ばした。
だが、崩れた石の縁が邪魔をする。裂け目の底から噴き上がる瘴気の圧が、二人の間の空気を歪めていた。さらに身を乗り出した瞬間、破れた右手袋の下へ、魚が一気に集まるのがわかった。
熱い。
深碧と銀の気配が、袖の奥から右腕へ駆け上がってくる。裂けた布の隙間から、瘴気に反応して肌が焼けるように痛んだ。まるで魚そのものが、この手から外へ出ようとしているみたいだった。
「セラフィナ様!」
レオニスの声が変わる。命令ではなかった。制止でもない。
祈るような、願うような響きが混じっていた。
「それ以上は、もう……」
何を、とは言わなかった。
けれど彼は見ている。破れた手袋も、剥き出しの指先も、そこへ集まる異様な気配も。
セラフィナは息を呑んだ。
その一瞬のためらいが、致命的だった。
崩れた縁が、さらに鈍く軋んだのだ。
レオニスの身体が沈む。
「──っ!」
セラフィナは反射的にさらに手を伸ばした。右手だった。
裂けたままの、素肌のままの手。指先と指先が、ほんの一瞬だけ触れかける。
その瞬間、裂け目の底から吹き上がっていた瘴気が、まるで生き物のようにうねった。
セラフィナにはそれが見えた。いや、魚が見せたのかもしれない。
黒い流れが、レオニスを呑み込もうとしている。
自分の手がその黒い流れに触れれば、もしかしたら消せるのかもしれない。
けれど同時に、その先にいるのは人だ。レオニスだ。
触れてはいけない。
その理屈と、助けたいという衝動が、胸の中で激しくぶつかる。
灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
セラフィナを見つめるその瞳が、ほんのわずかに優しく揺れる。そこには苦痛も焦りもあった。けれど、それ以上に強かったのは、拒絶ではなく覚悟だった。その覚悟の意味が、セラフィナにはわからなかった。わかりたくなかった。
次の瞬間、彼が掴まっていた縁が完全に砕けた。
空白のような一瞬だった。
伸ばされた手。届かなかった指先。
裂け目の底から立ちのぼる黒いもの。
そして、レオニスの身体がその中へ引きずり込まれるように落ちていく。
「──レオニス!」
叫びは広場全体へ叩きつけられた。
だが鐘は鐘楼が折れてなおも鳴り、瘴気は渦を巻き、その声はたちまち砕けて散った。




