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第11章 鐘楼の渦①

 

「旧都中の瘴気が、鐘楼へ吸われています!」


 騎士の叫びを聞いた瞬間、セラフィナは息を呑んだ。


 鐘楼。

 旧都の古い鐘楼は、ただ時を告げるためだけの塔ではない。かつて祈りや弔いの鐘を街じゅうへ届けるため、この国の“気”の流れが集まる場所へ建てられたのだと、昔どこかで聞いたことがある。


 もしそうなら──。


 背筋に冷たいものが走った。


 本来そこを流れるはずだったものの代わりに、いまこの国の地下では、瘴気そのものが脈のようにうねり、巡っているのではないか。鐘楼はその集まる先となり、祈りを運ぶはずの通り道が、いまは瘴気を吸い上げるものへと変わってしまっているのではないか。


 鐘の音がまた鳴った。


 もう祈りのための音ではなかった。

 鋭く、乱れ、石壁を打ち続けるたびに、大聖堂の内側にいる人々の心までもひび割らせていくようだった。悲鳴も怒号も祈りも、重なり合ううちに同じような響きへ溶けていく。


 セラフィナは立ち上がりかけたまま、どうにか息を整えようとした。


 だが整わない。

 胸の奥は焼けるように熱く、喉は乾ききっていた。咳を堪えるたびに、こめかみの奥で視界が白く明滅する。膝にも力が入らない。それでも、衣の下にいる魚の気配だけは異様なほど鮮明だった。


 喉元の下を走り、胸のあたりをせわしなく巡り、鐘楼の方角へ引かれるように痛む。


 行かなければならない。なぜかそんな思いに突き動かされる。

 考えたわけではない。身体の方が先に知っていた。そこに何があるのかも、なぜそう思うのかもわからない。ただ、魚だけが急かしてくる。怯えているのではない。むしろ、そこが中心なのだと知っているように。


「道を開けろ!」

 誰かが叫ぶ。

「姫殿下を動かすな!」

 別の誰かが叫び返す。


 白耀石を守ろうとする者、広場の異変へ向かおうとする者、堂内に留まって祈りを続けようとする者。誰もが違うことを口にして、大聖堂の中はまさに蜂の巣を突いたような混乱に包まれていた。


 その中で、レオニスだけがまっすぐセラフィナを見ていた。


「歩けますか」

 驚くほど静かな声だった。


 セラフィナは答えようとして咳き込み、それでも小さくうなずいた。

 彼はそれを見届けると、すぐそばの侍女へ短く命じる。


「外套を」


 青ざめた侍女が震える手で差し出した濃い色の外套が、セラフィナの肩へ掛けられた。白い衣を隠すためか、冷えを防ぐためか、それとも少しでも人々の視線を遮るためか。わからない。ただ、肩へ落ちた重みだけがこの目に映る全てが現実なのだと告げているようだった。


 老司祭が前へ出る。


「どこへ行くつもりだ」

「ここには置けない」

 レオニスは即答した。

「ならぬ。石をここから動かすわけにはいかん!」

「石は動かさない」

「では何をしに行く!」

 レオニスは答えなかった。


 その沈黙に、老司祭の顔色が変わる。


 セラフィナはその横顔を見ながら、自分でも知らぬうちに一歩前へ出ていた。


「姫殿下!」

 誰かが呼ぶ。

 だが、止まれなかった。


 鐘楼の方角から、胸の奥が強く引かれる。衣の下で魚が暴れ、今にも皮膚の内側から飛び出しそうなほど騒いでいた。そこに何かがある。自分に関わる何かが、確かにある。


「行かなければ」

 こぼれた声は、思った以上にかすれていた。


 老司祭が息を呑む。

 神官たちがざわめく。


「姫殿下、それは──」


「行かないでください」


 レオニスの声が、その言葉を断った。


 振り返りもしないまま、彼はなおも前に立つ。

 それが神官たちへ向けられた制止なのか、自分へ向けられたものなのか、セラフィナには一瞬わからなかった。


「今は安全な場所へ」

 命令というより、ほとんど宣言だった。


 老司祭が怒声を上げる。


「貴様に何の権限がある!」

「いま旧都で起きていることに、権限が追いついているようには見えません」


 低い声音は変わらない。

 けれどその冷たさは、抜き身の刃のようだった。


「通してください」

「ならぬ!」

「ならば、押し通ります」


 一瞬、堂内が静まり返った。

 近くにいた騎士たちが反射的に身構える。だがそのとき、大扉の外からまた悲鳴が上がった。


「北側は塞がれました!」

「回廊が崩れています!」

「広場側しか抜けられません!」


 道が塞がれたと知った瞬間、堂内の混乱はさらに激しくなった。

 地鳴りのような音がする。今度は先ほどより近い。誰かが転び、何かが倒れ、鐘楼の方角から黒い鳥の群れでも飛び立ったようなざわめきが広がる。


 高窓の外が暗くなった。

 雲ではない。

 空そのものに、黒い流れが集まり始めていた。


 堂内にいた人々が、いっせいに息を呑む。


 その隙を逃さず、レオニスがセラフィナの腕を取った。


「行きます」


 そのまま強く引かれる。

 手袋越しの力はしっかりしていたが、乱暴ではなかった。転ばせないよう支えながら、それでも迷いなく前へ進ませる力だった。セラフィナはほとんど引き寄せられるようにして、大聖堂の側廊を抜ける。その力強い手を頼りに、セラフィナは歩を進める。


「どこへ……」

 どこへ行くというのか。

 安全なところがあるとはもう思えない。


 だが、その道も先へは進めそうになかった。

 背後で誰かが叫んでいる。

 石を守れ。姫殿下を止めろ。鐘楼へ人を回せ。

 いくつもの声が交錯し、もう意味を持たない音の塊になっていく。


 仕方なく広場へ出た瞬間、空気が変わった。


 堂内の苦さなど比べものにならない。

 旧都の空は乾ききっているはずなのに、肺の奥へ沈む湿度を伴ったような重さがある。広場の石畳のあちこちに人がうずくまり、誰かが祈り、誰かが泣き、誰かがただ呆然と空を見上げていた。


 その視線の先に、鐘楼があった。


 旧都の北側広場に面する古い鐘楼は、大聖堂本体より少し離れた位置に建っている。痩せた石の塔だった。大聖堂よりもはるか前に建てられたのがわかる。その上空へ、いまは黒いものが吸い寄せられていた。


 怖い。素直にそう思う。

 巨大な渦に巻かれる鐘楼は禍々しくそびえ立っている。


 瘴気だ。

 ただの靄ではない。

 空へ立ちのぼる煙のようでも、地へ沈む霧のようでもない。街じゅうの暗がりから掻き集められたものが、一本の見えない軸を中心に渦を巻いている。鐘楼そのものが巨大な穴になり、空と地の間にあるものすべてを吸い上げているようだった。


「……あれが」


 セラフィナの声は掠れた。


 答えたのはレオニスではなく、近くで膝をついていた老女だった。

 泣きはらした目で空を見上げたまま、震える声で言う。


「鐘が、勝手に鳴り出したんです……誰も触れていないのに……」


 言われてみれば、鐘の音は今も続いている。


 だが、その鳴り方がおかしかった。

 人が綱を引いて鳴らす規則的な打ち方ではない。内側から何かが叩き続けているような、乱暴で、不吉な響きだった。


 魚が、また跳ねた。

 セラフィナは思わず胸元を押さえる。


 痛い。苦しい。

 だが、それだけではない。


 鐘楼の方へ近づくほど、衣の下の魚は黒い流れに怯えるのではなく、むしろそこへ向かおうとしていた。あそこが中心なのだ、と身体の方が先に悟ってしまう。広場や回廊に溢れている瘴気は枝葉にすぎない。本当に裂けているのは、鐘楼の下なのだと。


「近づきすぎるな」


 レオニスが低く言う。

 だがその言葉と同時に、広場の中央で誰かが叫んだ。


「溜まりが崩れるぞ!」


 石畳の一角、噴水の跡らしい窪地に黒いものが溜まっていた。最初は濃い影にしか見えなかったそれが、次の瞬間には水たまりのように広がり、そこから細い腕のような靄が何本も立ち上がる。


 近くにいた少年が足を取られ、倒れ込んだ。

 周囲から悲鳴が上がる。


 考えるより先に、セラフィナの足が動いていた。


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