第2章 雨だれの石①
扉の隙間から差し込む朝の光の中で、黒い影が一礼した。
セラフィナは緊張のまま動けずにいると、男もそのまま入室の許可を待っているようだった。
無駄のない動きを見せた男の第一印象は、逆光の影ですら刃に見えた。
黒に近い髪は整えられ、額を隠す前髪さえ無駄がない。睫毛が長いせいか、目元は柔らかく見えるのに、視線そのものは冷たく澄んでいる。色は淡い灰色だろうか──濡れた石の色のように見える。
顔立ちは、欠けるところが一つもない。整いすぎていて、かえって人間味が薄い。
それが“怖さ”になる美しさだった。
鎧の胸当てが光を反射しない。磨かれてはいるのだろうが、目立つことを拒むような鈍い色だ。背は高い。声は低い。短い言葉の端に、余計な感情が乗っていない。
こんなにじっくり人を見たのはいつぶりだろう、とふと思った。いつもは目が合う前に視線を落とす。相手が先に怯えるから。
セラフィナは、深く息を吸って吐いた。
目を逸らさないようにする。それだけで、精一杯だった。
「……入るの?」
自分の声が、思ったより乾いて聞こえた。
我ながらまぬけな返答だとセラフィナは思うが、咄嗟に口に出てしまったのだから仕方ない。
男は足を踏み入れる前に、わずかに間を置いた。まるで“許可”という形だけは守ろうとするように。
「御前、失礼いたします」
そして、入ってきた。
足音が重いのに静かだった。石床を叩くはずの金属音が、必要以上に響かない。歩幅も一定で、部屋の中央へ踏み込まず、入口から少し入った位置で止まる。
距離の取り方が適切で、迷いが無い。
何よりこの人はセラフィナを恐れていない。
それが、何人も見てきたセラフィナにはすぐに分かった。
怖がらない人間がいるという事実に、胸がざわついた。安心や喜びではない。怖さの種類が変わるだけだ。
余計に緊張が募るようだ。
「……新しい護衛、ですか」
「はい。レオニス・ローゼンフェルト。王命により、白耀の塔とセラフィナ殿下の護衛を拝命いたしました」
名乗りの声には感情が乗っていない。任務として述べているだけだとわかる。自分への怯えも、珍しがりもない。それが妙に落ち着く一方、どう扱っていいのかわからなくなる。
「ローゼンフェルト辺境伯の……」
「三男です」
セラフィナはそれを、好ましいとも不愉快とも判断できないまま、ただ見つめた。
「私には必要ないと伝えて、と言ったわ」
その言葉は棘になりたかったのに、喉で丸くなった。誤魔化すように立ち上がり、床で無残に割れた皿の欠片に手を伸ばす。
「承っております」
承った、という言葉の響きが妙に正直だった。聞いてはいる、でも従わない、ということを隠そうともしていない。
「それでも来たのね」
「命令ですので」
短い。言い訳がない。
セラフィナは、ふっと笑いそうになった。笑うほど可笑しくないのに、笑いそうになってしまう。自分の中に残っている“王女らしさ”の欠片が、言葉に困っている。
一つ、二つと破片を拾う指を、レオニスに掴まれた。
驚いてその手を咄嗟に引こうとした。
その前に、力強い指がセラフィナの手首を塞いだ。
指先に食い込む冷たい感触──割れた皿の破片。
いつの間にか拾って握りしめていたそれを、レオニスが無言で取り上げる。
「怪我をされます。ここは私が」
そういうと、もくもくと食器を片付け、床を拭きはじめた。
セラフィナは握られた手を胸の前で抱きしめ、足の震えが彼に気づかれなければいいと思う。
手袋越しでも、熱だけが残った。
「あなた、怖くないの?」
セラフィナの細い声はわずかに掠れていた。
目の前の男はしゃがんだまま表情も変えずにセラフィナをまっすぐ見つめる。その距離の近さはセラフィナにとって慣れたものではなく、緊張で身がすくむ。
「布越しならば大丈夫だと聞いておりますが、違いますか?」
淡々とした声音でレオニスが本当に恐れていないのだとセラフィナにはわかった。
口ごもってしまい自然と視線が、彼の手首に落ちる。
黒い手袋の先、鎧の袖口の隙間に、石が見える。小さなブレスレット。留め具は古い意匠で、宝石のように煌めくのではなく、乳白色の光を内側に抱いているように見えた。
「この塔の中では宝石や石はすぐ黒ずんでしまうのを聞いていないのかしら」
ブレスレットに視線をやりながらセラフィナは妙にその小さな石が気になっていた。
白耀石に似ている。
──いや、似ているというより、同じ“質”を感じる。
「家宝の石です。これは変質することはありません」
セラフィナの口から、思わずため息と共に言葉がこぼれた。
「その石……汚れないの?」
レオニスの視線が、初めてほんの少しだけ動いた。
それは驚きでも警戒でもなく、“その質問が出ることを想定していなかった”という程度の揺れだった。
「汚れません」
返事を聞いた瞬間、胸の奥でひどく静かな羨望が動いた。石に対してではない。
汚れないという事実に対してではなく——ここにあってもそのままでいられる、ということへの。
「いいな」
セラフィナは自分で言ってから、恥ずかしくなった。
何が、いいのか。汚れないから羨ましい?そんな珍しい石を持ってることが羨ましい?
石に嫉妬する王女なんてみっともない。
頬が自然と熱を帯びるのを感じる。
普段からあまり人と会話をすることがないから、あまり上手に受け答え出来ない自覚はあるのだ。
咄嗟に口をついて出た“いいな”は、石のことだけではなかった。
こんなところにあっても汚れない。恐れられない。
触れても誰も死なない。
そんな世界が、羨ましい。
「家宝なので献上することは出来ませんが、おそばにおりますのでいつでも見ていただくことは可能です」
レオニスはそういうと頭を下げる。
浅ましくもおねだりのように聞こえてしまう言葉に淡々と返してくれて、セラフィナは逆に胸をなでおろした。レオニスは嘲りもしない。そこだけが、セラフィナの胸に小さく残った。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、セラフィナは自分の手袋に意識を戻した。指先が無意識に留め具を確かめる。破れていない。濡れていない。
それを確認する癖は、もう祈りに近い。
いつもとはわずかに違う。先程触れたレオニスの熱が、いつまでもそこにこもっているようだ。
そのとき──
レオニスが跳ねるように顔を上げた。
「──雨?」
低く小さく呟いた。
雨?何を言っているのかしら。
セラフィナが窓の外を見たが、空は雲一つない。
「どうかした?今日は一日晴れてるわ。午後から少し風が出そうね」
いつも空を見ているおかげでお天気には少し詳しい。
レオニスはまた少し首をかしげた。まっすぐな髪がさらりと揺れる。その視線だけが雨のない場所をみていた。
セラフィナの袖の内側で、魚がひとつ、動いた。
皮膚の上を舐めるように、ゆっくりと。
その感触に、セラフィナは眉を寄せる。
(やめて)
言っても止まらない。止まらないから、無視する。
レオニスは、言葉を発しないまま一歩だけ姿勢を正した。
瞬時に室内の空気が冷たくなった気がする。剣の柄に指を添える。
抜くのだろうか、私を、切るのだろうか。
セラフィナは無意識に両手を広げた。
「……殿下」
「なに」
「本日より、部屋の外の警備も改めます。窓を開ける際は、私に声を」
セラフィナは眉をひそめた。
「窓くらい、一人で──」
「警備も王命です」
またそれだ。命令、命令、命令。
誰も彼も、セラフィナの人生を“命令”で囲い込む。
「……分かったわ」
腹が立っているのか、それとも少し楽なのか、自分でもわからなかった。命令と言われると、もう言葉を重ねる必要がない。
不本意を滲ませたセラフィナの返事に、レオニスは頷くだけだった。
それ以上、なんの言葉もない。
本来なら腹が立つ、はずなのに……妙に息が楽になる。
おもねるような視線も無く、優しさを装われないのは楽なのだと気づいた。
レオニスは踵を返し、扉へ向かった。
扉の外へ出る前に、一度だけ振り返る。
「殿下」
「──セラフィナと」
「セラフィナ様、なにかあればすぐお声がけください」
自分でそう呼ぶように指示したというのに、名前で呼ばれた瞬間、胸のどこかが一度だけ収縮した。殿下でも姫君でもなく、名前。それだけのことが、思ったより深く刺さる。
セラフィナは返事をしないまま、彼の背を見送った。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
けれど、さっきまでと同じ静けさではなかった。部屋の中に、目に見えない“何か”が置かれた気がする。
「変な人……」
変、という言葉しか出てこなかった。でも変ではない気もした。ただ、今まで知らなかった種類の人だということだけは、はっきりとわかった。
セラフィナは手袋の留め具を確かめた。
破れていない。濡れていない。
それでも、袖の内側で魚が小さく動いた。




