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第1章 白耀の塔の末姫③

 窓の外では、祈りの列が少しずつ増えていく。


 白耀石に向けられる掌と、セラフィナに向けられる噂と、黒い流れ。全部が絡み合って、塔の中まで息苦しくさせる。

 ひと口二口と粥を口に運ぶが、先程の侍女の姿を思い出し、持っていた匙を皿に置いた。あれほど恐れられる存在がのうのうと食事をとることに罪悪感すら覚えてしまう。


(私は、何のために生きているの)

 自然と胸が詰まって瞳が熱を孕む。

 いけない。泣くことは許されない。

 ぎゅっと眉根に力を入れる。

 セラフィナの涙も猛毒なのだと面白おかしく噂が流れている。


 何度問うても、答えはいつも同じところに戻る。

 王族であるセラフィナを無碍に扱うわけにはいかない。とはいえ触れた者が悉く死ぬような呪われた人間を自由にさせるわけにはいかないのだろう。セラフィナの存在は兵器にもなりえる。

 手袋の布が、指先で微かに鳴る。何故だか胸がざわついた。

 セラフィナは食器を片づけかけた手を止めた。呼吸を乱さないように、肩の力だけを抜く。手袋の縫い目に沿って指を伸ばし、留め具を確かめる。不安なことが起こるとついやってしまうセラフィナの癖だった。


 そのとき。


 廊下の向こうで、鎧が石床を叩く音がした。


 規則正しい。ためらいも迷いもない。侍女の足音とは違う。

 近づいてくるにつれて、塔の空気が硬くなる気がした。

 不安なのか、警戒なのか。自分の感情の輪郭が、このごろますますぼやけている。

 それに合わせるように手袋の下で、何かが動いた。

 セラフィナは背筋を伸ばし、無意識に手袋の留め具を確かめる。

 破れていない。濡れてもいない。きちんと閉じている。

 いつもはそれほど長い時間動くことのない肌の上を泳ぐものが、大きく動くのを感じる。


 布越しの感覚は鈍いはずなのに、それはやけに生々しく伝わってくる。皮膚の表面を、濡れた指先で撫でられているような──あるいは、水面の下で小さな生き物が尾を振ったような。


(落ち着いて)


 自分に言い聞かせ、そっと袖口を引き上げる。白い布の内側に隠されている腕。その一部が、わずかに覗いた。


 素肌。


 そこに、魚がいる。


 魚の形の痣が、皮膚の上を泳ぐように移動していた。墨で描いたように黒い輪郭は、濃くなったり薄くなったりしながら、まるで本当に水の中にいるみたいに滑る。尾が揺れ、ひれが細く震える。──もちろん、そんなものがあるはずがないのに。


 セラフィナは、喉の奥が冷たくなるのを感じた。


 生まれた時から、そこにいた。

 物心ついた時には、すでに“それ”はセラフィナにとっての恐怖の象徴だった。


 呪い。


「姫君の素肌に触れた者は死ぬ」


 大人たちはそう言ってセラフィナを疎んだ。言葉を呑み、祈り、距離を取った。

 その中で、ひとりだけ近づこうとした人間がいた。


 乳母だ。

 生まれてから数年はいたような気がする。幼いセラフィナを石の塔で世話してくれていた。

 彼女は震えながらも、セラフィナを抱こうとした。布越しにでも温もりを伝えたかったのだろう。

 けれど、誰かが叫んで止めた。


「触れるな!」

 そして次の日、乳母はいなくなった。


 あれが本当に“触れたから”だったのか。セラフィナには分からない。

 ただ、消えるように人がいなくなることだけは本当なのだと理解した。

 守るための塔。隔離のための塔。

 どちらであっても、結果は同じだった。セラフィナの世界は狭くなり、人の目から隠された分だけ、噂は大きくなった。


(……わたしがいなければ)


 その考えはいつだってセラフィナの思考の多くを支配する。

 城や周辺が清浄なのは白耀石のおかげだ。

 けれど瘴気は城へ流れてくる。私のいる塔へ向かってくる。

 みんな私を恐れる。一人、また一人、侍女が逃げる。噂が増える。

 噂が増えるほど、人は確信する。


 “本当に死ぬのだ”と。


 セラフィナだって自分のことが恐ろしい。

 誰よりも一番セラフィナのことを恐れているのはセラフィナ自身だ。


「どうして……」

 わたしなの。


 毎日のように繰り返す自問自答。答えなんて見つかるはずもなかった。

 若い神父は選ばれたものにのみ与えられた試練だと告げるが、その試練は一生セラフィナにつきまとう。


 本当に触れれば死ぬのかなんて、一度も確かめたわけでもないのに。

 セラフィナ自身、本当のことなんてなにもわからない。ただ、人の身にはあり得ないことがこの身の上に起きていることだけは本当だ。


 セラフィナは窓へ目を向けた。

 黒い靄が、今日も細い筋になって城へ寄っている。ゆっくりと、確実に。何かに引かれるように。


 その瞬間、肌を泳ぐ魚がぴくりと動いた。


 袖の内側。心臓に近い場所へ向かって、痣が滑る。

 まるで──何かに呼応するかのように。


 セラフィナは思わず、手袋をした指先で布の上からそこを押さえた。

 身体が、反射で恐怖を固める。


 怖い。


 なにが怖いかもわからないのに恐怖だけが肌を撫でたようだ。セラフィナの柔肌が粟立ち、心拍が早くなる。


 ゆっくりと扉がノックされる。

 先程退出した侍女の小さな声が聞こえてくる。


「……殿下。新しい護衛がつきます」


 セラフィナは生唾を飲み込んだ。


 重い金具が擦れる音がして鍵が開けられたのだとわかる。けれどセラフィナは扉を開く許可を出せずに固まってしまっていた。


 侍女と同じように、護衛騎士もすぐに入れ替わる。

 最近は外に出ることもないセラフィナに騎士など不要だと、つけられなくなって久しい。


 まただ。

 セラフィナはもう放っておいて欲しいのだ。

 侍女も騎士も、勝手にやってきてはセラフィナを化け物のように畏怖の対象として接する。

 繰り返される同じ日々にセラフィナはもう疲れていた。


「私には必要ないからと、お父様にそう伝えてくれる?」

 セラフィナは許可の代わりに出来るだけ気丈にそう告げると、再度確認するように外からコン、と小さく扉が鳴った。


「御前失礼してもよろしいでしょうか」


 男の声は低く、短く、感情が薄かった。けれども絶対に室内に入るという強い意志を感じさせる声だった。


 セラフィナが驚いた拍子に肘があたり、粥の入った皿を床に落としてしまう。

 その音が静かな部屋に響いた。


 同時に重い金具が擦れ、扉がわずかに開く気配がした。


「失礼いたします」


 東側にある扉の隙間から、冷たい朝の光が差し込む。

 その光の中に、黒い影が立っていた。


 セラフィナの心臓が跳ねた。

 怖い。

 なぜかそう思った。

 瞳がその影から離せない。

 侍女はもういないようだった。室内には自分だけ。逃げる場所もない。


「……殿下、お怪我は、ありませんね?」


 セラフィナは息を吸い、慌てて子供のように首を縦に動かした。


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