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第1章 白耀の塔の末姫②

 セラフィナはただ小さくため息を漏らした。


 塔は王城の中央に建っている。中庭から見上げればそれは空に刺さる槍のように見えることだろう。白い石で組まれた壁はひどく硬い。窓は細く、扉は重い。誰かは「守りの塔」と呼び、誰かは「隔離の塔」と呼ぶ。


 セラフィナには、どちらも否定できなかった。


 室内は、上質な家具が配置され、細かく刺繍の入った美しいカーテンが細い窓の横で小さく風に揺れる。ふかふかのラグが敷かれ、ベッドに使われるリネンも清潔で手触りだけで上質なものだとわかる。


 美しい牢獄のようだわ。


 セラフィナは小さく嘆息すると、窓辺に寄り城下を見下ろす。


 城壁の外側に広がる町、その向こうの畑、そのさらに向こうの黒い森。朝の光が斜めに差し込み、屋根瓦を淡く照らしていた。人々は今日も動いている。荷車の影が揺れ、煙突から細い煙が立ち上る。

 見えないはずの匂いまで、セラフィナは想像で補ってしまう。焼きたてのパン。濡れた土。草の匂い。採れたての魚の香り。

 ──生きている町の匂い。

 実際に触れたことなど一度もないのに。全ては本から得た知識でしかないのに。


 城の中庭には、朝日とはまた違う光が降りそそいでいた。

 セラフィナの住まう塔の尖塔に据えられた石飾りが朝日を受け、清らかな輝きをあちこちへ反射しているのだ。


 白耀石。二つとない国宝の巨石。汚れない石。


 セラフィナの部屋からは見ることはできないが、白いのに白ではなく、灰色なのに灰でもない。乳白色の光を内側に抱いたような石で、埃も煤も寄せつけないと言われている。城とそこから見える範囲が清浄な空気に満ちているのは、その石のおかげだ。


 城下では祈りが絶えない。

 人々は塔を見上げ、手を合わせ、白耀石に願いを預ける。子の病を。畑の実りを。冬の息災を。

 黒い靄が町の外縁に漂うようになってから、その祈りはますます熱を帯びたように思う。


 黒い靄の正体はわかっていた。

 ──瘴気。


 昔は“匂い”でしかなかったものが、ここ数年で目に見えるようになった。遠くの森の上を漂う霧が、ある日から筋になり、流れになり、城へ向かって動くようになったのだ。

 セラフィナはそれを初めて見た日のことを覚えている。


 鳥が空で向きを変え、逃げるように城から離れた。

 風が一瞬だけ止み、肌が冷たく粟立った。

 そのとき、黒いものが──まるで川のように、城へ向かって流れてくるのが見えた。


 そして今日も、同じものが見える。


 森の上で揺れていた黒が、細い筋になって、少しずつ、しかし確かに、城へ寄ってくる。

 セラフィナの喉の奥が、きゅっと縮んだ。


(……わたしがあれを呼んでいるのだろうか)

 そう人々が噂しているのはセラフィナの耳にも届いていた。

 城が清浄なのは白耀石のおかげ。ならば、城へ向かう黒い流れはなぜ石に集まっているのだろう。わからない。わからないけれど、違うとも言い切れない。

 その答えのなさだけが、胸の奥に重く残った。


 塔の扉が小さく叩かれる。

 セラフィナはもう一度自分の姿を姿見で確認する。


「どうぞ、入って」


 声をかけながら扉から一番離れた壁沿いに置いた一人がけのソファに腰を下ろした。


「……失礼いたします」


 侍女の声は細い。ゆっくりと扉が開く。今の侍女はまだ若い。肩幅も華奢で、手の指が細い。セラフィナの部屋に入って十日目だ。──十日でももった方だ、とセラフィナは思う。

 侍女は顔を伏せたまま、室内に入ってきた。目が合わないのはいつものことだ。だが今日の彼女は、足取りが特にぎこちなく、膝がわずかに笑っている。


(あぁ……)

 セラフィナはその理由を察していた。


 王家から、侍女たちに下る言葉は同じだと、誰が話していたかはもう覚えていないが、いつだか侍女から聞いたことがある。いつも侍女が交代するたびに、背筋が硬くなるほど同じ恐怖をまとって入ってくるのだから、想像がつく。


 ──姫に直接触れるな。

 ──触れればその身の無事は約束できない。


 そんなことを告げられて、平静でいられる者はいない。


 侍女は銀盆を抱えたまま、セラフィナには近づかず、机の端へ滑らせるように置いた。距離はいつもより遠い。皿がわずかに震え、かすかな音を立てた。まるでセラフィナの周囲に見えない境界線があるかのように。


「……殿下」


 呼ぶ声が、泣きそうだ。


 セラフィナは胸の奥がちくりとした。それが同情なのか、諦めなのか、自分でも分からない。


「大丈夫よ」


 言ってしまってから、虚しいと思う。何が大丈夫なのか。

 大丈夫だなんて思ってないのに、慣れてしまった口は勝手に言葉を紡ぐ。

 布越しなら触れられる。手袋越しなら、誰かの手を取れる。理屈としては分かっている。


 ──それでも、目の前の人は怯えている。恐怖は理屈を越える。

 王家の言葉が、彼女の命を握っている。


「……申し訳ありません」


 侍女は突然、そう言って頭を下げた。

「私、明日からは……」


 続きが言えない。声が震えて喉で詰まる。


 セラフィナは、返す言葉を見つけられなかった。

 慰めていいのかも分からない。引き止める権利があるのかも分からない。引き止めたところで、彼女が私を恐れているなら──。


「……分かったわ、今までありがとう」


 絞り出すようにそれだけ言うと、侍女は肩を落とし、ほっとしたように、同時に罪悪感に潰れそうな泣きそうな顔をした。

 そして、逃げるように下がった。


 扉が閉まる音が、塔の静けさに吸い込まれる。音が消えてから、セラフィナはゆっくりと息を吐いた。肺の奥まで出し切るように。


 泣きたいのはセラフィナの方だ。


 盆の上には、薄い粥と、白いパンと、湯気の立たないハーブ湯。

 王女の食事としては質素すぎるけれど、セラフィナは慣れていた。豪華なものは、誰かの手が必要になる。切り分ける手。取り分ける手。注ぐ手。

 その手を、私は奪うかもしれない。


 だから、これでいい。


 セラフィナは慎重に匙を持つ。手袋越しの感覚は鈍く、熱も伝わりにくい。

 それでも、こうして毎日、自分の手で食べることだけが、わずかな自由だった。


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