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第1章 白耀の塔の末姫①

 白耀の塔の朝は、音が少ない。


 城下の鐘が鳴るより早く、窓の外を海鳥がひと声だけ落としていく。風はそれをさらい、白い石壁には夜の冷たさがまだ残っていた。

 秋の訪れは風の冷たさだけでなく、窓の外の色を変えてセラフィナに知らせる。遠くに見える木々の緑はわずかにくすみ、朝の空もまた、夏のようなやわらかな青ではなく、どこか澄みすぎた淡い色をしていた。

 豪奢であり歴史ある巨城の一番高い尖塔。その上階までは人々の営みの音は聞こえてこない。


(あぁ、もう朝なのね)


 セラフィナ・エルフェンディール・ヴェイルマールの朝はまず、窓を開けて毎日変わらぬ景色を眺めるところからはじまる。

 毎日変わらない退屈が確定している一日のはじまりに、もう少し夢の世界にいられれば良いのにと思ってしまう。そう思うたびに、少し自分が情けなかった。望んでいいものと、そうでないものの区別が、もうわからなくなっている。


 この国の王族として生を受けたはずだが、セラフィナに与えられた世界は本当に狭かった。目に見える範囲の、塔の中の居室。十七年間ここで過ごしていた。それがセラフィナに与えられた世界の全て。

 古い城の上階とはいえ、ここには旧時代のアーティファクトがそこかしこに存在している。ロストテクノロジーなので壊れればもう二度と作れないとは言われているが、今も蛇口を捻れば潤沢に水も湯も出る。


 一人で顔を洗い、朝日の元で白銀のように輝く長い髪を丁寧にとき、手伝いがなくとも着られるように工夫されたドレスを身につける。毎朝誰に会うよりも前に、全てを終わらせておかなければならない。


 手袋をはめる。

 片方の指を入れ、布を引き上げ、縫い目が肌に噛まない位置まで整える。もう片方も同じように。最後に手首の留め具を締め、余り布が出ないよう折り込んで、指先まできっちりと張りを作る。


 途中、肌の上を舐めるように移動する感触にセラフィナは顔を顰めながら、それを無視した。


 手袋の下で、何かが動く。


 布越しの感覚は鈍いはずなのに、それはやけに生々しく伝わってくる。嫌悪ではない。もっと古い、慣れ親しんでしまったものへの、静かな疲弊だった。


 セラフィナは息を止め、留め具を確かめた。破けてもいないし、汚れてもいない。それを確認すると小さく安堵のため息を漏らす。


 次に、襟。


 襟元の小さなボタンを一つ、二つ、三つ。喉のすぐ下まで閉じる。息が詰まるほどではない。けれど、ゆるみが残るほどでもない。


 鏡の中の自分はいつも同じだ。白い布、閉じた首元、隠された手。顔以外は全てが布の下に隠れていることを再度確認するとやっと安心できる。同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。痛みに名前はつけられない。ただ胸の中心あたりが、毎朝同じ場所でわずかに沈む。それだけだった。


 鏡の中のセラフィナは、王城の廊下にずらりと飾られた王族達の肖像画よりもずっと薄かった。


 物理的に細いという意味もあるが、その色も、存在感も、全てが薄く感じるのだ。


 不定期に開催される家族のお茶会という集まりの時だけ塔から降りることが許されるセラフィナは、その時に全てを目に焼き付けようと端々までよく眺めているのだが、過去の王族達にセラフィナほど薄い者は存在していなかった。


 白銀の髪は肩から背へ落ち、光を含むたびに輪郭が曖昧になる。頬は削げているわけではないが、食事の少なさが骨の線を際立たせ、鎖骨が影を作る。

 瞳は深い青緑──空ではなく海の色だ。けれどその目が、あまりに静かで、感情の色をのせることが得意ではないせいでまるで深い海の底を覗き込んだように感じるのだ。


 肖像画の中にセラフィナも飾られているが、ここに並ぶことに違和感を覚える。自分で自分をそう思うのが、いちばん怖かった。


 ──私は、外へ出てはいけない。人に触れてはいけない。


 塔の中の呪い姫。

 セラフィナにつけられたあだ名を知らぬものはこの国にはいないだろう。


「姫君の素肌に触れた者は死ぬ」


 幼いころの記憶は断片しかない。一番古い記憶は生まれ落ちた時のものだと思われる。視力の定まらないまま見た世界を、ぼんやりと覚えている。慟哭。叫び声。触れようとした手のひらが途中で引っ込められ、誰かが祈るように両手を組む姿。恐怖に歪む表情。誰かが倒れる姿。ただ、“触れる”という行為だけが、禁忌として身体に染みついた。


 それ以来、セラフィナの居場所は白耀の塔になった。


 布越しならば触れられると聞かされていても、人は理解出来ない存在を容易に受け入れられないものだ。

 侍女も最低限しか近寄らず、定期的に人が変わるのでセラフィナが覚えることも困難なほどだった。


 侍女や騎士の他にも塔を訪れる者は何人かいた。医者、教師、聖職者。


 けれど彼らもまた、恐れを隠そうともせず、必要最低限しか部屋へ入ってこない。医者はセラフィナがよほど体調を崩さない限り、触診もせず顔色を見るだけだった。教師は本を山のように運び込み、やりとりのほとんどを紙の上で済ませた。聖職者たちは祈りを捧げ、一方的に言葉を置いていくばかりで、まともに目を向けようとはしなかった。


 その中で、時折ひとりの若い神父だけが長く塔に留まることがあった。

 彼はセラフィナを怖がる様子を見せなかった。

 神話や古い聖人の話をし、選ばれた者の孤独や、苦しみにも意味はあるのだと、静かな声で語った。

 その言葉は、慰めのようでいて、実際にはどこにも出口がなかった。

 それが自分の身に起きていることとして聞くには、あまりにも救いのない話だった。


 セラフィナには、毎日こなすことがいくつかあった。


 朝と夜に祈りを捧げること。

 本を読むこと。絵を描くこと。刺繍をすること。


 どれも、若い神父、シリルに勧められたものだった。


 祈りは心を静めます。

 書物は魂を正しく導きます。

 絵や刺繍のような穏やかな手仕事は、思いを乱さず過ごす助けになるのです、と。


 塔の中で日々を過ごすセラフィナにとって、それはいつしか習慣になった。

 そして習慣は、やがて役目になった。

 自分にはこれをして過ごすのがふさわしいのだと、そう思うようになっていた。


 けれど、祈っているあいだも、本を読んでいるあいだも、絵筆を動かしているあいだも、胸のどこかはひどく静かだった。


 満たされているわけではない。慰められているわけでもない。

 ただ、何も考えずに一日を終えるために、決められた順に指を動かしているような気がするときがある。


 刺繍糸の色を選んでも、花弁を描いても、物語の頁をめくっても、そこに自分の人生が続いているようにはどうしても思えなかった。


 それでもセラフィナは続ける。

 これが自分に与えられた穏やかな務めであり、役目なのだと信じていたからだ。


 今日もなにも変わらない。一日がはじまる。


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