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第9章 封鎖旧都②

 だが、その淡い想像も長くは続かなかった。


 窓の外の景色から、緑はいつの間にか消えかけていた。

 土の色は濁り、水気のない風が枯れ草を撫でて過ぎる。

 旧都はまだ見えない。けれど、その気配だけが先に馬車の中へ入り込んできていた。


 馬車がさらに北へ進むにつれ、窓の隙間から入り込む空気が少しずつ変わっていく。冷たさとは違う、乾いた苦みが喉の奥へじわりと張りつき、ひと息ごとに胸の内側を薄く削っていくようだった。


 セラフィナは知らず、膝の上の指先へ力を込めた。


 さっきまでは、話しているあいだだけ忘れていられた。けれど静かになると、誤魔化していた不調がまた輪郭を取り戻してくる。喉の奥がひりつき、息を吸うたび胸のあたりがわずかに軋んだ。視界の端も、ほんの少しだけ揺れている。


 向かいのレオニスは何も言わなかったが、こちらを見ている気配があった。

 その視線に気づかないふりをしながら、セラフィナは乾いた唇をそっと噛む。


 もう少しだけ、と思った。

 この程度で弱った顔を見せたくはない。旧都へ着けば、もっとひどいものを見るのだろうから。


 けれど、喉の渇きは思っていた以上に早く限界へ近づいていた。何度か唾を呑み込もうとしてもうまくいかず、胸の奥に熱いような痛みが薄く広がる。


 やがてセラフィナは、かすれる寸前の声で言った。


「……水を」


「どうぞ」


 レオニスが短く言い、小さな瓶を差し出す。

 セラフィナは受け取って一口飲んだ。

 冷たさはあるのに、喉の渇きはほとんど癒えない。

 胸の内側で魚が落ち着きなく泳いでいるのがわかる。


「もうすぐです」


 レオニスの声に、セラフィナは顔を上げた。

 馬車の小窓から見える先に、旧都の外壁があった。

 本来なら堂々とした古都の門だったのだろう。

 だが今はその半分以上が黒ずみ、門前には封鎖用の柵と布幕が乱雑に重ねられ、周囲には教会の旗がいくつも立てられている。

 兵だけではない。白い法衣の者たちが多い。

 教会が前へ出ている。

 そう見て取れた。


「……あれが、旧都」


 声にすると、それだけで喉が軋んだ。

 レオニスは眉根を寄せたまま短く頷く。


「今は教会が施療院と封鎖線の管理を主導しているようです」

「王宮ではなく」

「王宮の手が足りていないのでしょう」


 足りていない。

 それはきっと、ひどく控えめな言い方なのだろう。


 馬車が速度を落とす。

 外のざわめきが大きくなる。

 王都を出る時のざわめきとは質が違った。

 こちらはもっと切迫していて、乾いていて、何かに縋りつこうとする手の音が混じっている。


 門の前には人がいた。

 セラフィナの喉がコクリと小さく鳴った。

 多い。

 思っていたよりずっと多い。


 痩せた顔。

 布で口元を覆った者。

 子を抱く女。

 壁にもたれて座り込む老人。

 病人を乗せた粗末な担架。

 それを押さえる手。

 祈る声。

 呻く声。


 封鎖されているはずなのに、人はそこに溜まり続けている。

 出られない者と、入れない者と、見捨てられたくない者たちが、門のまわりで淀んでいた。


 その向こう、旧都の内側には大聖堂の塔が見える。

 鐘楼の上部は黒ずみ、白壁はところどころ汚れに侵されている。

 だがその前庭だけは不自然なほど人の出入りが激しく、白い法衣の者たちが忙しなく行き来していた。


 あそこが拠点なのだと、すぐにわかった。

 白耀石はあそこへ運ばれ、自分たちもあそこへ泊まるのだろう。

 大聖堂付属の宿舎。

 高位聖職者や巡礼の客を泊める区画があると聞いていた。

 この封鎖下で、一行がまとまって身を置ける場所など、もうそこしかない。


「石だ……」


 誰かが言う。

 その声は、乾いた草に火が移るみたいに広がった。


「白耀石だ」

「来た、来たぞ」

「本当に来たのか」

「姫もいる」

「姫を見ろ」


 人の波が動く。

 騎士たちが制止し、教会の者が叫び、柵が軋む。

 それでも人々は前へ押し寄せようとする。

 希望と絶望と、信じたい気持ちと、何かを呪いたい気持ちが、全部ひとつになっているような顔だった。

 その強い感情が怖かった。

 セラフィナは一瞬、呼吸すら忘れて動けなくなる。寒くもないのに肌が粟立つ。


 馬車が止まった。


「ここでお待ちください」


 レオニスがそう言って立ち上がる。

 けれどその瞬間、外から声が飛んだ。


「姫君をお出ししろ!」


 教会の者だった。

 白い法衣の男が、門前の仮設台の上からこちらを見上げている。


「民を落ち着かせるためにも、まずお姿を示していただかねば」


 セラフィナの指先がこわばる。


「まだ到着したばかりです」

 レオニスの声が低くなる。

「姫君は長旅でお疲れだ」

「だからこそ石のそばへ」


 聖職者は当然のように返す。


「ここで示さねば意味がありません。民は奇跡を待っているのです」


 奇跡。

 その言葉が、自分からはひどく遠いものに聞こえた。

 セラフィナは息を整える。

 いや、整えようとした。ここで拒めば、旧都の人々の目の前で“救いを閉ざした側”になってしまう。それではここまで来た意味がなくなってしまう。

 この地にいられるのは二日だけだと聞いていた。瘴気に侵された地は思いのほか多く、この後も転々と巡回していかなければならないのだ。


「……行きます」


 そう言うと、レオニスが振り向いた。

 その目に浮かんだものを、セラフィナはうまく名づけられない。


 怒り。焦り。止めたい気持ち。

 どれもあるのだろう。

 けれど彼は、ただ短く言うだけだった。


「離れないでください」

「ええ」


 馬車の扉が開く。

 外気が一気に流れ込む。


 王都の外よりもさらに濃い、腐りかけた水と薬草と汗と病の匂いが混じった空気だった。

 思わず咳が出そうになるのを、セラフィナは必死に堪える。

 レオニスの手が肘を支える。

 そのまま馬車を降りた瞬間、ざわめきがひときわ大きくなった。


「姫だ」

「本当に……」

「白い」

「呪い姫」

「黙れ、聞こえるぞ」

「だが見ろ、あれが──」


 言葉は途中で濁り、次の瞬間には別の種類の沈黙へ変わった。

 誰もが、同じものを見たからだ。


 周囲を漂っていた黒い靄が、まるで統率を取られたかのように一同に動いた。

 風にも流されなかったそれが、一気に大きなうねりになった。

 旧都の上を覆っていた黒い靄が、まるで水門が決壊したかのようにこちらへ向き直る。細く長く形を変え、白耀石を載せた架台の傍ら──セラフィナのいる方へ集まり始める。


 王都で見た時より、もっとはっきりしていた。

 一筋ではない。

 幾筋もの黒が、門前の石畳の上を這うように動き、重なり、また分かれ、最後には同じ場所を目指す。


 川だ、とセラフィナは思った。

 瘴気が川になっている。

 自分へ流れ込もうとする、黒い川。


「やはり……!」


 聖職者の声が震える。

 感嘆なのか、興奮なのか、恐れなのか、もう判別がつかなかった。


 群衆は一歩後ずさる。

 祈りの声が悲鳴へ変わる。一度あがれば悲鳴は連鎖的に広がる。


「穢れが寄っていく!」

「姫が呼んでいる!」

「違う、石だ、石のせいだ!」

「どっちでも同じだ、近づくな!」


 怒号、押し合い、叫び、咳、泣き声。

 門前の空気が一気に荒れる。

 セラフィナの胸元で、魚が激しく跳ねた。

 布越しなのに、その尾びれが肌を打つ感触がわかる。


 息がうまく吸えない。

 目の前が少し暗くなる。


(やっぱり、わたしが──)


 そう思った瞬間、さらに濃い黒が足元近くまで寄ってきた。


 けれど、不思議と触れない。

 あと少しで届きそうなのに、瘴気はその寸前で渦を巻き、セラフィナの周囲を巡るばかりで、肌には届かなかった。


 泥が飛んだ。


 とっさに何が起きたかわからなかった。

 次の瞬間、鈍い音とともに黒く汚れた泥がレオニスの肩口へ跳ねる。

 誰かが、門前のぬかるみを掴んで投げたのだ。


「……っ」


 セラフィナが息を呑むより早く、レオニスは一歩前へ出ていた。

 剣には触れない。ただその身体で、さらに飛んでくるかもしれないものを遮るように。

 頬に跳ねた泥が、その整った顔を無残に汚していた。

 それが、自分へ向けられたものだったとわかって、セラフィナの胸が強く縮む。


 群衆が一瞬、しんと静まり返る。

 泥は黒い礼装の肩を汚し、ゆっくりと滴り落ちた。


「やめろ!」

「違う、あれが来たから……!」

「呪い姫が!」


 混乱は収まるどころか、かえって収拾がつかなくなる。


「ごめんなさい」


 レオニスへハンカチを差し出す。わたしに向けられた泥だった。わたしに向かって投げられた悪意だったのに、この人はそれをわたしの代わりに受けてしまった。

 泣きだしたいほどの気持ちに視界が歪む。レオニスは何も言わずにハンカチを受け取ってくれたが、それを持ったまま民衆の方へまた鋭い眼光を向ける。


 靄は流れとなってセラフィナのもとへ集まる。その濃さは王都の比ではない。


 セラフィナは追い詰められるように白耀石へ近付くと、瘴気は石に触れると同時に僅かに色が薄くなっていく。

 吸い寄せられるように流れたぶんだけ、空の一角にわずかな青がのぞいた。

 貴族の一人が低く言う。


「予想通りだ」

「姫を置いておけば、王都へなお集まっていただろう」

「石だけではこうはならなかった」


 その声は評議会の延長のようで、なのに今はひどく現実味があった。

 セラフィナの胸が軋んだ音を立てる。


「殿下」


 レオニスの声が、すぐ前に落ちる。

 彼は完全にセラフィナの前へ出ていた。

 背中が視界を塞ぎ、群衆の視線も、寄ってくる黒い流れも、その向こうへ押しやられる。

 剣には手をかけていない。

 抜けば恐慌が広がるとわかっているのだろう。

 代わりに、その身体そのものを盾にしている。


「進みましょう」


 短い声だった。

 それ以上のためらいを許さない響きに押されるように、セラフィナは足を踏み出した。


 門を越えた先では、なお多くの者たちが待っていた。

 病人を抱えた家族。

 教会の施療院に入れず、道端に座り込む者。

 水桶を抱えたまま立ち尽くす子ども。

 井戸の周囲には黒ずんだ汚れがこびりつき、石の縁を白い布で何重にも巻いて封じてある。

 門の内側は、外から見た以上に酷かった。

 建物の壁は黒ずみ、窓は半ば打ち付けられ、路地には人の気配よりも先に病の匂いが沈んでいる。

 遠くには施療院らしい白い布幕が見え、その前には痩せた人影が折り重なるように並んでいた。

 大聖堂の鐘楼が、曇った空の下に見える。

 その麓にも人がいる。

 膝をついて祈る者。

 虚ろな目で石を見つめる者。

 そして、セラフィナを見て、露骨に顔を歪める者。


「呪いだ」


 誰かが吐き捨てた。


「穢れを呼ぶから、こんなことに」

「違う、今さら来ても遅いんだ」

「石を寄越せ」

「姫はいらない!」


 その最後の叫びが、ひどく鮮明に胸へ刺さった。刺さったまま、抜けない。

 姫は“いらない”。


 当然だ、とセラフィナは思う。他の声は流れていくのに、その四文字だけが胸の内側に張りつく。

 皆が欲しいのは救いであって、自分ではない。

 自分はただ、石の傍らに置かれることで意味を持たされているだけなのだから。


 息が詰まる。

 咳が込み上げる。

 今度は堪えきれず、肩が揺れた。

 すぐにレオニスが振り返る。


「姫」

「……だいじょうぶ」


 声はもうほとんど掠れていた。


「大丈夫ではありません」

「今は、だめ……」


 止まれない。

 ここで立ち止まれば、また見られる。

 また“使えないもの”として目に焼きつけられる。父や兄に失望されてしまう。王女として、顔を下げることは許されない。


 レオニスは何か言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。

 代わりに歩調だけを落とし、さらに近くへ寄る。

 その沈黙が、かえって苦しかった。


 旧都の中心へ近づくにつれ、白耀石の傍らで祈りは大きくなっていく。

 けれど同時に、瘴気の流れもまた濃くなる。

 石だけの力では追いついていない。

 それが、セラフィナにもわかった。


 白耀石を載せた架台の周囲にはうっすらと光のような澄んだ揺らぎがあり、寄ってきた黒を押し返してはいる。触れれば僅かに薄くはなる。

 だが押し返し、消したそばから、次の黒が流れ込んでくる。

 まるで底の抜けた桶で水を掻き出しているみたいだ。


 足りない。

 その事実が、門前の誰よりも、むしろセラフィナ自身へ絶望のように落ちてきた。

 もし白耀石だけで足りないのなら。

 もし自分がここにいる意味が、本当に“均衡”のためだとしたら。


「……やめて」


 誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからない。

 瘴気にか。

 人々の視線にか。

 それとも、自分自身の考えにか。


 だが何も止まらない。

 黒い流れはなお寄ってくる。

 祈りも罵りも途切れない。

 旧都の空は重く、鐘楼の影は長く落ちている。

 その大聖堂の一角に自分たちは今夜泊まるのだろうと、セラフィナはぼんやりと思った。

 あそこに白耀石を置き、自分もその傍らに置かれる。

 そして明日にはまた別の街へ向かう。

 そういう予定なのだと、教会の者たちは当たり前のように口にしていた。


 だが本当に、そんなふうに進めるのだろうか。


 この惨状を見て。

 この黒い流れを見て。


 白耀石ですら押し返しきれないものを前にして。


 喉の奥がひどく乾く。

 呼吸をするだけで胸が痛い。

 旧都の真ん中を歩きながら、セラフィナは思った。

 セラフィナを石の側に置いたとして、そもそも自分に出来ることが何なのかセラフィナにはわからない。


 本当にこれで足りるのか。不安が渦を巻く。

 いや、もうどこかで破綻しているのではないか。


 その問いに答えが出る前に、足が一歩前へ出た。考えながら少しずつ進むしかない。

 止まれば、もっと恐ろしいものが忍び寄ってくる気がした。


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