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第10章① 浄化の破綻

 白耀石が大聖堂へ運び込まれたとき、人々は泣くように祈った。


 その声は高い天井へ吸われ、何重にも反響して堂内を満たしていく。救いを願う声だった。すがる声だった。

 けれどその底には、追いつめられた者だけが持つ切迫と、もう何かしらに縋るしかない者の狂気にも似た熱が混じっているのを感じる。


 セラフィナは祭壇の下へ設けられた席へ導かれながら、その熱に包まれていた。

 用意された椅子は、座る者を休ませるためのものではなかった。背は高く、白布が幾重にも垂れ、そこへ座る者を人ではなく象徴へ変えてしまうつくりをしている。祈りを受ける像か、供物として据えられるもののための座のようだった。


「姫殿下、こちらへ」

 老司祭の声音は恭しかったが、優しさはなかった。壊れやすい器を扱う慎重さではなく、定められた位置へ正しく置くべきものへ向ける慎重さだった。

 段差の前で足が止まりかけたとき、すぐ横から低い声がした。


「お気をつけください」

 レオニスだった。

 手袋越しに支えられた肘は静かで、揺るがない。その感触だけが、この場で不自然なくらいまっすぐだった。


 セラフィナは小さくうなずき、席へ着く。

 その瞬間、堂内の視線がいっせいに集まるのがわかった。


 白耀石は祭壇の奥、高壇の中央へ据えられている。王城の塔頂で見慣れてきた光より、どこか細く見えた。それでも白い輝きは確かに堂内へ広がり、柱の根元や床石の継ぎ目にまとわりつく薄暗い靄を押し返している。


 人々は石を見る。

 そして、石の下に置かれたセラフィナを見る。

 これだけ多くの目に見られているのに、自分はどこにもいない気がした。石の隣の空白として、ただそこにある。


 祈る目。縋る目。確かめる目。恐れる目。


 何も起こらなかったとき、誰を責めればいいのか探している目まであった。


 その視線の群れの中に、見覚えのある顔があった。

 やはり間違いない。白耀の塔にいた頃、ときおり長く留まり神話や古い聖人の話をしていた神父、シリルだ。


 以前より衣は上等になっていたが、淡い色の長い髪も、神々しいほど整った顔立ちも変わらない。年を重ねたはずなのに、あの頃と同じように若く、穏やかに見えた。

 会いたかった、とは思わなかった。

 ただ、見つけた瞬間に、少しだけ息が楽になったのは本当だった。

 まっすぐな瞳がセラフィナに向けられている。

 懐かしい、と思いかけて、すぐに打ち消した。懐かしいのではなく、慣れているのだ。あの人の声に、あの言い回しに、あの貼り付けられた笑みに。それは安心とは少し違う。

 それだけなのに、なぜか胸の奥が冷えた。


 喉の奥がひどく乾いていた。

 旧都へ入ってから、空気が違う。冷たいだけではない。乾いていて、苦い。吸い込むたび胸の奥が冷たく凍りつくようだった。馬車の中で誤魔化せていた不調も、ここへ来て急に輪郭を持ちはじめている。

 それでもセラフィナは姿勢を崩さなかった。

 ここで弱った顔を見せることは王族として許されない。


 鐘が鳴る。香が焚かれる。聖歌が重なる。

 白耀石の光はたしかに瘴気を押し返していた。だが、浄めきっているわけではなかった。堂内へ這い込もうとする黒ずんだ気配は、光に触れるたび薄れはするものの、消えた先からまた寄ってくる。まるで波のように、押し返され、砕け、また戻ってくる。


 そのことは、衣の下の魚が教えていた。

 セラフィナは膝の上で手を重ねたまま、そっと息を殺す。

 袖の奥。喉元の下。脇腹のあたり。

 衣で隠されているはずの肌の下を、魚が落ち着きなく動いていた。

 普段なら、水底をゆっくり滑る影みたいに静かなのに。

 いまは違う。細長い身を小さく反らし、向きを変え、せき立てられるようにあちこちを泳ぐ。触れられないはずのそれが、衣越しに熱として、痛みとしてわかる。


 瘴気が濃いのだ、とセラフィナは思った。

 だが、それだけではなかった。

 動くたび、魚の気配が濁る気がした。

 見えているわけではない。けれど、セラフィナの中にははっきりとわかる。もともと深い海の色をしていたそれに、墨を落としたような黒がにじんでいく。銀の縁取りまで鈍っていく。

 汚れている、と思った。


 魚が。

 自分の中の、あれが。

 その考えが来た瞬間、ひどく怖かった。

 息が詰まる。

 やはり自分が瘴気を呼んでいるのではないか。石が押し返しているものを、自分がここへ引き寄せて、魚まで傷めているのではないか。


 白耀石の光が、ふっと鈍った。

 ほんの一瞬だった。


 だがそれで十分だった。堂内がざわめく。聖歌がわずかに乱れ、祈りの声もほどけた。その隙を待っていたかのように、北側の回廊から濃い瘴気が一気に流れ込んできた。

 それは靄というより、黒い水のようだった。

 床石の継ぎ目を這い、柱の根元へまとわりつき、祭壇の方へじわじわと滲んでくる。


 誰かが悲鳴を上げた。

 病人を抱えていた女がよろめき、若い神官が香炉を落とす。熱い香が床へ散り、白い煙が立つ。視界が塞がれる。声が重なる。神官たちの意識は一斉に白耀石へ向いた。


「祈りを止めるな!」

 老司祭の声が響く。

 誰も、祭壇下の床を這う黒い滲みをまともに見ていない。

 けれどセラフィナには、それがまっすぐ自分へ向かってくるのが見えた。


 いや、見えたというより、わかった。

 魚が痛いほどに暴れる。

 喉元の下を、袖の裏を、熱い針で引っかかれるような感覚が走る。濁りはさらに深くなり、まるで自分の中の魚そのものが、黒いものに呑まれていくようだった。


 駄目だ、と思った。

 何が駄目なのかもわからないまま。

 ただ、これをそのまま近づけてはいけないと、身体の方が先に知ってしまった。

 気づけば立ち上がっていた。

 近くにいた侍女が息を呑む。だが止める声が届くより先に、セラフィナは一歩前へ出ていた。黒い滲みはもう祭壇下の白布の縁へ触れかけている。


 魚が跳ねた。

 ひどく熱い。

 怖い。


 このままでは汚れてしまう、とセラフィナは思った。

 自分がではない。魚が。自分の中の、あれが。


 その恐怖に突き動かされるように、セラフィナは反射的に片手の手袋を外した。

 白い指先が空気へ晒される。

 本来なら、そんなことはしてはいけない。


 誰かに触れれば、人を死なせてしまうのだと、ずっと言われてきた。けれど今は人に触れるのではない。黒い滲みへ触れるだけだ。


 どこかで思ってしまった。人を殺めてしまうこの呪いで、瘴気も消せるのではないかと。

 袖口をわずかにずらし、ほんのひとときだけ素肌を出す。


 そのまま、床石の上を這う瘴気へ指先を触れさせた。


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