第9章 封鎖旧都①
旧都へ近づくにつれて、景色は少しずつ色を失っていった。
最初に変わったのは空気だった。
王都を出てしばらくは、湿り気を含んだ重さだけだったものが、街道を進むにつれて、鼻の奥へじわじわと残るような苦みを帯び始める。
土の匂いとも、腐った水の匂いとも違う。
もっと乾いていて、それでいて肺の内側に張りつくような嫌な気配だった。
馬車の中で、セラフィナは何度も喉を押さえた。
咳は王都を出てからもしばらく続いていたが、今はむしろ咳き込むより、呼吸そのものが浅くなる。
息を吸うたび、胸の奥へ薄い刃が差し込まれるようだった。
旧都へ行くという現実が、ようやく実感を伴って目の前へ迫ってきた。
自分が行けば何かが変わるのだと思っていたのだが、それは思い上がりだったのかもしれない。
向かいに座っているレオニスは、何も言わずにこちらを見ている。
その灰色の瞳はいつも通り静かで、だが今日はずっと、何かを測るようにこちらへ向けられていた。
「聞かれる前に答えておくわ」
「何をですか」
「体調のこと。……あまり良くない」
レオニスは何も言わなかった。ただ、眉をわずかに寄せ窓の外へ目を向けた。
「お尋ねしておりません」
「先に答えた方が早いでしょう」
セラフィナは少しだけ目を伏せる。
馬車は揺れる。
車輪の下で石が擦れ、外では馬や騎士や従者の足音が絶えず続いていた。
白耀石を載せた架台の軋む音も、ときおり低く響く。
あれだけ大勢に囲まれ、王都を出るときには見世物のように扱われた行列も、旧都へ近づく頃にはずいぶん静かになっていた。
祈りの声も、囁きも、今は少ない。
代わりにあるのは疲労と、誰も口にしたがらない不安だった。
旧都は、まだ遠くにその輪郭が見えるだけなのに、すでにこちらの息を詰まらせてくる。少し近づいただけで、肌が死の気配に怯えているようだった。
旧都には、まだ救いを待つ民が大勢いる。
そう思うのに、瘴気を前にすると、浮かぶのは救いより死のイメージばかりだった。
都を離れてしばらくしても、出立前の言葉がセラフィナの胸に残っていた。
必ず生きて戻れ。
無茶はするな。
そして、ユリウスがレオニスへ向けた念押し。
あれは何のことだったのだろう。
考えないようにしても、馬車の揺れに合わせて何度も思い返してしまう
馬車が大きく揺れた。
石を噛むような硬い音が、車輪の下で途切れず続いている。王都を離れてから道は目に見えて荒れ、進むほどに景色の色も薄くなっていた。窓の外に広がる地は、冬枯れとも違う、何かもっと内側から弱ってしまったような乾いた色をしている。
車内には、セラフィナとレオニスしかいなかった。
本来なら侍従か侍女のひとりは同乗していてもおかしくない。だが、塔を出る時点でそれを願い出る者はいなかったし、塔で仕えてくれていた歳若い侍女たちを連れて行くことは許されなかった。割り振られた者たちも、できるだけ馬車の外に留まりたがった。手袋越しなら触れられると知っていてなお、長く同じ箱の中にいることを避ける気配は隠されなかった。
慣れている、はずだった。
そういうものだと、もうずっと前から知っている。
それでも、向かいに座るのがレオニスひとりだけだと思うと、不思議とそれまでとは別の意味で息苦しかった。
レオニスは、揺れのたびにわずかに体勢を直すだけで、ほとんど姿勢を崩さなかった。
その静けさが、かえって意識に触れる。
セラフィナは膝の上で手を重ねたまま、しばらく黙っていた。何か話した方がいいのかもしれないと思うのに、こんな状況で何を口にすればいいのかわからない。外の景色も、胸の内も、黙って見つめていると沈んで息がつまるばかりだった。塔にいた頃は沈黙しか知らなかったのに、この人と過ごすようになってから、黙っていることへの慣れ方が変わってしまった気がする。
「……あの」
思い切って声をかけると、レオニスが顔を上げた。それだけのことなのに、見られたことへ妙に意識が向いてしまう。セラフィナは少しだけ視線を揺らし、それでも口を開いた。
「先ほど、兄上があなたに仰っていたこと……あれは、どういう意味なのですか」
レオニスはすぐには答えなかった。
「わかっているか……そう念を押されていました」
馬車がひとつ大きく揺れる。
レオニスは揺れに合わせてわずかに体勢を直してから、低く言った。
「今は話せません」
それだけだった。
拒まれた、というより、そこから先へ進ませないために扉を閉めたような言い方だった。
セラフィナは小さくうつむく。
「……そうですか」
気まずい沈黙が落ちる。
このまま黙っていれば、さっきよりも息苦しくなってしまいそうだった。だからセラフィナは、半ば逃げるように、別の問いを探した。
「あなたは……いくつなのですか」
言ったあとで、ずいぶん妙なことを聞いたと思った。
こんな旧都へ向かう途中で、護衛の年齢を尋ねる。自分でも不自然さに気づいて、わずかに頬が熱くなる。けれどレオニスは笑いもせず、ただ一度だけ瞬いた。
「二十三だ」
「……そうなのですね」
思っていたより年若い。
もっと年上にも見えるし、逆に妙に若く見える時もある。整いすぎた顔立ちと感情の薄い表情のせいで、年齢の輪郭が曖昧に感じられる人だ。
「セラフィナ様は」
「十七です」
レオニスは小さくうなずいた。
それで会話が終わってしまいそうになって、セラフィナは慌てて次の言葉を探した。
「ローゼンフェルト領は、どんなところなのですか」
「何だ、急に」
「……少し、聞いてみたくなって」
レオニスは窓の外を一度見た。
灰色の空、疲れたような街道、その先に漂う鈍い気配。それらと見比べるようにしてから、低く答える。
「緑が多い」
「緑……」
「森と草地ばかりだ。王都みたいな真っ白い石畳や飾りはない」
簡素な言い方だったが、嫌っている響きはなかった。ただ、そういう土地なのだと、そのまま受け入れている声音だった。
「春から夏は、風が草を倒して波みたいに見える。海も近い」
海、という言葉に、セラフィナは少しだけ身を乗り出した。
塔の高窓から遠く光るものを見たことはある。けれど、近くで海を見たことはない。潮の匂いも、水が寄せて返す音も、想像の中でしか知らなかった。
「海は……きれいですか」
「ああ、きれいだ」
その短い返答が、かえって本当らしかった。
「どんな色なのですか」
そこまで尋ねると、レオニスは珍しくすぐには答えなかった。
何をどう言えばいいか考えているようにも、考えるより先に口にしそうになったものを押しとどめたようにも見えた。やがて彼は少し視線を逸らしたまま言った。
「……セラフィナ様の瞳に似ている」
セラフィナは目を見開いた。
「え」
何を言われたのか、すぐには飲み込めなかった。
「晴れた日は、もっと明るいが」
彼はそれ以上たいしたことではないように続けた。
「曇れば深くなる。青だけじゃない。緑が混じる。岸の浅いところと、少し先の深いところで色が違う。日を受ければ光るし、白波が立てば、兎の群れが跳ねているようにも見える」
言葉数の少ない人なのに、そのときだけは海の色を確かめるように言葉が続いた。
セラフィナはしばらく返事ができなかった。
自分の瞳の色を、そんなふうに言われたことがなかったからだ。冷たいとか、硝子めいているとか、作りものめいているとか、そういう言い方ならあった。美しいと形容されることはあっても、それは人ではなく宝飾品に向ける視線に近かった。
けれど今のそれは違った。
見慣れた景色を思い出すときの声だった。
「……瞳を見ると、故郷を思い出す」
独白のようなレオニスの言葉に、なぜかセラフィナの頬が自然と熱を帯びる。
馬車がまた揺れた。
けれど先ほどまでのような息苦しさは、少しだけ薄れていた。胸の奥で強張っていたものが、いつの間にかやわらいでいる。
セラフィナは外衣の裾をそっと握りながら言った。
「いいですね。そういう場所があるのは」
レオニスはすぐには答えなかった。
「いい場所ばかりでもない」
「そうなのですか」
「ああ。辺境だから貧しい。土はやせているし、冬は長い。王都みたいに物は集まらない」
彼の声は淡々としていた。
卑下しているわけでも、誇っているわけでもない。ただ、そこにある暮らしをそのまま言葉にしているだけだった。
「獣を狩ったり、海のものを拾ったり、採れたもので食いつなぐことも多い」
「騎士も、ですか」
「騎士もだ」
「王都の騎士とはずいぶん違うのですね」
「少なくとも、飾りではない」
真顔で返されて、セラフィナは思わず少し笑った。
笑ってから、こんなふうに声を漏らしたのは久しぶりかもしれないと思う。レオニスはその笑い声を珍しがるように、ほんの少しだけこちらを見た。
「何だ」
「いえ……少し想像してしまって」
「何を」
「あなたが狩りをしているところを」
レオニスは無言になった。
否定しない。その沈黙が答えのようで、セラフィナはまた少しだけ笑ってしまう。
「していたのですね」
「必要だったからな」
「似合います」
すると、レオニスの眉がほんのわずかに動いた。
「褒められている気がしない」
護衛騎士に狩猟が似合っているだなんて、失礼なことを言っている自覚はあるが、太陽の下で弓を引き、獲物を追う姿は容易に想像できた。
「褒めています」
「そうか」
短いやり取りだったのに、馬車の中の空気は先ほどよりもずっと息がしやすくなっていた。
少ししてから、セラフィナは気になったままになっていたことを、もうひとつ口にした。
「海のもの、というと……魚や貝ですか」
「魚もある。貝も」
「海も豊かなんですね」
そう言うと、レオニスはわずかに間を置いた。
「……たまに真珠も出る」
セラフィナは目を瞬いた。
「真珠?」
「ああ。毎年ではない。量も多くない。嵐のあとや、潮の流れが変わった年に、貝から運よく見つかることがある」
「それは……とてもきれいなのでしょうね」
「どうだろうな」
あまり興味がなさそうに聞こえる声だったが、否定もしなかった。
「領の者にとっては飾りというより換金できるものだ。ひとつ見つかれば、その年の冬を少しましに越せる」
その言い方があまりにも現実的で、セラフィナは口元をやわらげた。
「夢があるのかないのかわかりませんね」
「生活がかかっているからな」
「でも、私は素敵だと思います」
レオニスがこちらを見る。
セラフィナは、まだ見ぬその海を思い浮かべながら続けた。
「……静かな海からの贈り物なんて、とても素敵に思えます」
レオニスはすぐには答えなかった。
「……運が良ければ、見せられるかもしれない」
ぶっきらぼうなままだったが、声音は少しだけやわらかかった。
塔に持ってくれば黒ずんでしまうのだろうかと、セラフィナは一瞬思った。けれど、その気持ちまで口にするのは惜しくて、ただ柔らかく微笑むにとどめた。
馬車の揺れに合わせて、窓の外の景色が流れていく。
その先には旧都があり、重い空気があり、苦い気配が待っている。近づくほどに、その現実ははっきりしていくはずだった。
それでも今だけは、そこから少しだけ離れた場所の話ができた。
「何かの書物でローゼンフェルトには古代の遺跡が沈んでいる、という伝承があると読んだことがあります」
セラフィナが言うと、レオニスは短く答えた。
「ある」
「本当にあるのですか」
「沖が澄む時期に、深い場所に石の影みたいなものが見えることはある。波が高いところだから潜ったものはいないが、柱だとか階段だと言う者もいる。年寄りは古い神殿だと言う」
沈んだ神殿。
その言葉に、セラフィナはなぜか心の奥を引かれるような感覚を覚えた。理由はわからない。ただ、水の底に沈んだ何かを思うと、胸の奥がかすかに波立つ。
「では、本当に何かあるのかもしれませんね」
「かもしれない」
「あなたは見たことがあるのですか」
レオニスは首を縦に振った。
「あれがそうなのかはわからないが」
それで十分だとでもいうような声音だった。
セラフィナは小さくうなずく。
海の色。風に倒れる草。貧しいけれど、人が生きて、冬を越え、狩りをし、海から恵みを受け取る土地。王都とも、白耀の塔とも、まるで違う場所。
「……いつか、見てみたいです」
半ば無意識に、言葉がこぼれた。
言ってから、そんなことが叶うはずもないのにと思う。旧都へ向かう馬車の中で口にするには、あまりにも遠い願いだった。
けれどレオニスは否定しなかった。
「見られる」
セラフィナは顔を上げた。
彼は窓の外を見たまま、いつもの抑えた声で続ける。
「海は逃げない」
あまりにも簡潔で、ぶっきらぼうで、それなのに不思議とやさしい言葉だった。
セラフィナは返事をしなかった。
できなかった。
喉の奥が少し詰まり、自分でも驚くほど、その一言が胸の深いところへ落ちていったからだ。期待など持ってはいけないと、ずっと思ってきた。叶わないことを望めば、そのぶんだけ痛むのだと知っていた。
それでも、その言葉は小さな灯のように残った。
馬車は軋みながら進み続ける。
外の空は重く、旧都は近い。
それでもほんのわずかなあいだだけ、セラフィナは苦い空気とは別のものを吸えた気がした。レオニスの故郷にあるという海は、どんなふうに光るのだろうと、そう思えるくらいには。




